第33話 乾家の嫡子( 1 )

 

 桜子がまったく予期しなかったことに、祖父と会った次の日には乾家の嫡子と顔を合わせることになった。

 桜子には事前の言伝ことづてもなく、不意打ちと言っていい。それはあまりに突然だったため、会わずに済ませることは不可能だった。


 相手は桜子の家を直接訪れたのだ。桜子も困惑を隠しきれなかった。

 秋津彦に呼ばれた桜子が、薄紅の小袖としびらをまとった姿で何の心得もなくふすまを引くと、部屋の奥には見慣れない青年がいた。


 若葉色の着流しが、障子を背によく映えている。落ち着いた仕草で青年は顔を上げ、桜子を認めるとわずかに微笑した。


 その整った顔立ちにはどこか人をなごませるものがあり、同時に老成した雰囲気を感じさせる。年を知らなければ、いくつなのか測りかねただろう。


 桜子がいきなりのことに何も言えずにいると、青年はくつろいだ笑みをくずさずに言った。


「乾惣之助です。桜子さんですね」


 桜子は、ただうなずくことしかできなかった。

いつのまにか呼びに来たはずの父の姿も見えなくなっている。桜子は立ちつくしたまま相手を見返した。

 そこでようやく、目の前の青年が祖父の話した「似合いの相手」だと気づく。そう気づいた時には、逃げることも隠れることもできなかった。



「いきなり来てしまって申し訳ない。正式に話がまとまる前に一目お会いしたいと思ったので、無礼を承知で来てしまったのです」


 言葉は丁寧だが、どこか余裕のある口調だった。

 桜子は心のなかで狼狽した。こんな運びになってしまう前に、行動を起こさなければいけなかったのだ。薫の合図を待っている場合ではなかった。こんなことになるなら、早くお宮に行って守り手の証を手に入れるべきだった。


 桜子は上目遣いに相手の様子をこっそりうかがった。惣之助はその視線に気づくと、桜子がたじろいだことに優しい眼差しを惜しげもなく向けた。


 ——場慣れしている。


 それが桜子が一番初めに感じたことだった。とてもひとつ年上とは思えない。


 ——お父さんが美男と言ったのは、少なくとも間違いではなかったのね。


 桜子は見つめられたことに顔が熱くなるのを感じながら、そう考えた。どちらかというと色白の薫と違い、目の前の青年は日にけて、成熟した大人の性質が備わっているように見える。


 今日初めて顔を合わせたというのに、前々から桜子を知っているかのような振る舞いは、かえって警戒心を失わせた。

 それが目の前の男性の匂いたつような魅力からくることに、桜子は気づかなかった。桜子がうつむくと、惣之助は障子をすかし外を見つめて言った。


「ここでは何かと人の目もあるでしょう。俺と一緒に少し出ませんか」



 答える暇は与えられなかった。惣之助はそう言うと立ち上がり、何気ない仕草で桜子の手をとった。

 あまりにも自然な動きだったため、桜子は抵抗することを一瞬忘れてしまった。気づけば桜子の右手は彼の大きな手のひらの内にあり、振りほどくことはもうできなかった。

 普段の桜子なら、何をするのと言って憤慨するところだ。そうできないことは、不思議といえば不思議なことだった。

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