第31話 婿がね( 2 )


「最近はあまり稽古に来ないそうだな、桜子」


 不意に話しかけられ、桜子は声のした方を振り返る。いつもと変わらぬ祖父の姿がそこにあった。


「桂木がめずらしくしおれておったよ。桜子に少し物を言いすぎたと」


 あまりに普段通りの様子だったため、桜子は色々なことを上手く口にすることができなかった。瑞彦は少し目を細めて言った。


「なかに上がって型を見せてみなさい。一から順番に」


 急な申し出に桜子は質問することも忘れて戸惑ったが、瑞彦は譲らなかった。


「稽古が終わる頃、一人で木刀を振っていたんだろう。私もその技をひとつずつ眺めたい」


 そうまで言われて断ることはできなかった。ちょうど良く、更衣室には稽古着の予備もある。

 桜子が小袖に藍染の袴をはいて帯を締めると、木刀を片手に日差しで暖められた板敷きの床を踏んだ。


 技を見てもらうのは久しぶりだった。

 ひとつめの型の足拍子をとらえる。と同時に、桜子は大きく一歩踏み込んで木刀を振り宙を切り上げた。


 一連の動きを終えると軸足を変え、あとは体が型をなぞっていくのにまかせる。こめかみに汗が浮かぶのも気にならない。祖父の視線もどこか遠かった。


 ——体が軽い。木刀の重さを全然感じない。


 いつまでもずっと続けられそうだった。木刀はすでに桜子の一部だった。たんっと床を蹴ると、そのまま浮遊するような高揚感が桜子の内にのぼる。

 無心に型の流れを追っていると、いきなり近くで祖父の声がした。


「それまで」


 パシン、と手を打つ音が辺りに響く。桜子は夢から覚めたような気がした。こんな気持ちになるのは初めてだった。


 技のひとつひとつは桜子の内から自然と生じており、その流れに身を馴染ませていけば、いくらでも続けることができるのだ。

 祖父は桜子を見つめたまま口元をほころばせた。


「ここまでできるようになっていたとは。今の桜子は初伝しょでんを軽くしのぐ」


 言われたことにきょとんとして桜子はつぶやく。


「今のは、もしかして伝位の審査だったの」


 瑞彦はうなずいた。


「春には取る約束だっただろう。ずっと先延ばしになってしまったが、これでもう桜子も一人前だ。なばり流を継承できるほどに」


「でも、この稽古場は継げないのね」


 桜子はふたたび言った。去年の冬からあんなに楽しみにしていた伝位の初許はつゆるしなのに、祖父に技を褒められても不思議なほど喜びが湧いてこない。

 喜ぶには、もう何もかも隔てられていた。

あんなにも好きだったこの稽古場すら、桜子とは関係のないものに成り果てようとしている。


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