第30話 婿がね( 1 )


 桜子が薫と約束をしてから、二日が経とうとしていた。薫の話が本当かどうかは定かではないにしろ、桜子の相手が絞られているのは事実のようだった。そう秋津彦に告げられたのだ。思わず顔を赤らめた桜子に、父は言った。


「年の頃も家柄も申し分ない。それになかなかの美男だ。お前もきっと気にいるに違いない」


「ちょっと待ってよ。私は——」


 秋津彦は反論しようとする桜子の前で大きく手を振った。


「すでに先方も承知していることだ。お前の祖父もずいぶん力添えしてくれてな」


 桜子はハッとした。


「おじいちゃん、帰ってきてるの」


 秋津彦がそれに頷くと同時に、桜子は制止を振りきって表へ飛びだした。



 初夏のやわらかな風が鼻孔をくすぐってゆく。雲の切れ目からそそぐ日差しのまぶしさに目をしかめながら、桜子は稽古場の方角へと走った。


 祖父には聞きたいことがたくさんあった。母のこと、薫のこと、行方不明になった薫の父のこと、その優が介入した『月読』という組織のこと。



 優は自分から、そのなかに入ったのだ。水脈みお大蛇おろちが宿る、剣の力を解くすべを探るために。その経緯を誰からも知らされないまま、嫁ぐことなどできるはずもなかった。



 急いで走ったため、着いた時には息が上がっていた。風にそよぐ緑の葉が陽光をさえぎっている。吹いてくる涼しい風に、桜子は思わず桜の木を見あげた。


 薫はここに母の結界が残っていると言ったが、何も感じとることはできなかった。それが薫の話したことの信憑性を低めていることに、桜子は気づいていた。

 実の母娘おやこである桜子よりも、薫の方がずっと撫子に近い場所にいる。そう思うと歯がゆいような悔しさが胸を覆った。


 扇を手に舞う撫子の逸話を知っていたからこそ、違うものを自分で身につけたかった。今まで祖父の稽古場だけが桜子の居場所であり、技を磨くよすがだったのだ。でも今やそれも失おうとしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る