1日目(19)―20年ぶりの再会

 気づくと、龍馬は母親の病室の前まで来ていた。


 ひと呼吸し、その扉をスライドさせる。

 外光のほとんど入らない薄暗い大部屋。向かって右側の一番奥のベッド。

 それが、母のベッドだった。はずだ。

 ゆっくり歩みを進め、ついに病床の仕切りも兼ねた白いカーテンに手をかけた。


 (――母さん)


 第一声は、言葉にならなかった。

 代わりに鼻の奥がツーンとして、視界がぼやけた。

 

 そこには、たしかに在りし日の母がいた。

 まだ意識もしっかりした、やさしい笑顔があった。

「あら、りょうちゃん? 来てくれたの? 今日はもう来ないんじゃないかと思ってたから、母さん、うれしいな」 

 龍馬は、しばらく返事ができなかった。

 涙をこらえるのに必死だったからだ。

「ん? りょうちゃん、どうしたの? なにか嫌なことでもあった?」

「……いや……なんでもない。ちょっと……花瓶の水、替えてくる」

 龍馬はベッド脇の花瓶を急ぎ手に取り、すぐ母に背を向けた。そして、そのままトイレへと小走りで行った。

 

 龍馬はトイレの個室に入り鍵をかけると、少しの間だけ泣いた。

 

 やがて個室を出ると、洗面所の前に立ち冷水で顔を何度も洗った。

 そして深呼吸をひとつすると、花瓶を手に再び病室へと戻った。

「ごめん、洗面台が混んでてさ……」

 言ってから、明らかに嘘だとわかったろうなと後悔した。

「……そう、ありがとうね。それでね、りょうちゃん……」

「なに? 母さん」

 できるだけ笑顔を作り、母の方を見る。


「じつは……今日、岩槻いわつき先生がこちらにお見えになられたの」


 母の口から意外な名前が出て驚く。

 岩槻とは龍馬の担任で数学教師なのだが、少し生徒のことを小馬鹿にしたところがあり、龍馬はあまり好きではなかった。

「でね、りょうちゃんが……今日、学校を無断で休んだって……」

 そういうことか、岩槻め。余分なことをしやがって。

 龍馬はそう内心憤ったが、努めて冷静に応えた。

「あぁ、そうだったんだ。ごめんね、心配かけて」

「いいえ、母さん、心配は少しもしてないの。りょうちゃんが無断で学校を休むなんて、よほどのことがあったんでしょう?」

 そうだった、母はこういう人だった。

 息子のことを無条件に100%信じている。そういう人だった。


「じつは、ちょっと色々あって……」

 龍馬は、母になんと話すべきか迷った。

 下手なことを話し、病身に心配をかけたくなかった。

「ひょっとして、また母さんの仕事のことで嫌な思いなんて――」

「――してないよ! そんなこと一切ないから」

 英恵は、また自分のせいではないかと勘ぐっていたようだ。

「そう……なら、いいんだけど。なにか困っていることがあるのなら言ってね。こんな状態だけど、できることは何でもするからね」

「わかったよ、母さん。でも、今は自分の病気のことを一番に考えて」

「ありがとね、りょうちゃん。でも……できれば母さん、学校には行ってもらいたいな。岩槻先生もね、りょうちゃんのことよくできた息子さんだって褒めてたのよ。成績も優秀だし、生徒会もがんばってるって。本当にとんびたかですねって」

「アイツ、そんなこと母さんに言ったの!」

 龍馬は苛立った。あの岩槻なら言いかねない。きっと母を仕事のことで見下したに違いない……。


「いいの、りょうちゃん。本当のことだもの、鳶が鷹よ。でもね、私うれしいのよ。りょうちゃんは、本当に母さんにはもったいないくらいの、いい子だから」


「でも、母さんのこと――」

「――いいの! りょうちゃん。岩槻先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ。わざわざ、こんなところまで尋ねてくれるのは、りょうちゃんこと目にかけてくれてる証拠なんだから、ね」


 母の穏やかな笑みに、龍馬は強く握った拳を隠した。 

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