1日目(18)―贖罪

 窓の外では、日が没しようとしていた。


 龍馬は、どこか薬品臭いリノリウムの廊下をひとり歩いていた。

 ファミレスを出ると、碧、東海林と別れ、龍馬はまっすぐここにやって来た。

 受付にいた疲れた顔の事務員には「あと15分で面会終了ですからね」と何度も釘を刺された。

 しかし、そんなことより、記憶の外に追いやっていたを否が応にも思い出させるこの空間そのものに龍馬は胸が苦しくなっていた。


 一歩一歩が、ひどく重苦しく感じられる。


 忘れもしない。

 この古びた総合病院こそ、龍馬の母が入院しそのまま生きて帰ることのなかった場所だ。

 ただ幸いなのは、この時間軸でもおそらく最期の日はまだ少し先だということだ。

 

 前の時間軸では、今日から6ヶ月と12日先のことだった。

 

 おそらく今日、病室をのぞけば、まだ意識のはっきりした母が出迎えてくれるだろう。母の末期の日々は、抗がん剤と鎮痛剤の大量投与により、意識がないのが日常だった……。

 

 龍馬は、会いたいような、会いたくないような微妙な心持ちだ。

 

 理由は、やはり、どうしても最期のあの日を思い出すからだろう。それでも、在りし日の母にもう一度会いたいという気持ちが若干勝った。龍馬は、あの日と同じリノリウムの感触を足の裏に感じながら母との日々を思い返していた。


 ◇ ◇ ◇


 龍馬の家は、母子家庭だった。


 両親は学生結婚だったが、龍馬が1歳の頃、父が事故で早世。

 以来、龍馬の母、英恵はなえの苦悩の日々が始まる。

 

 互いの家を勘当同然で駆け落ちし結婚した経緯もあり、英恵は夫の死後、どちらの親もほとんど頼りにはできなかった。

 

 元々、英恵は才女で、大学院の薬学科で新薬の研究にいそしんでいたのだが、龍馬の誕生とともに休学。その後、夫の他界も重なると学費もままならなくなり、結局、自主退学した。あとに残ったのは、莫大な奨学金のローンだけだった。

 

 それから英恵は、女手ひとつで龍馬を育てるため、また奨学金のローンを返済するため、昼は派遣の事務仕事、夜は水商売と掛け持ちし、文字通り身を粉にして働いた。


 しかし、ほとんど眠らず働き続け、合間に育児もこなす日々が、長続きするはずがなかった。英恵は次第に体調を崩し、ついには昼間の仕事中に倒れた。医者は過労だと言い、休養を取ることを強く勧めたが彼女は首を縦には振らなかった。


 片親だからといって、龍馬にみじめな思いだけはさせたくない。


 それは英恵にとっての意地であり、祈りでもあった。

 英恵はその後も懸命に働くが、無理がたたって倒れたり、やまいに伏すことが次第に多くなった。元々、体は丈夫な方ではなかった。そんな繰り返しの日々のなかで、英恵は度々、理不尽な解雇にもあった。


 いわゆる、派遣切りの時代だった。


 一方で、大学院を卒業した同級生たちが製薬会社などで華々しく活躍し始めていた。そんな噂を耳にする度、英恵は自らの不遇ふぐう不甲斐ふがいなさに夜な夜なひとり涙を流した。


 龍馬は、そんな母を間近で見て育った。ふたりが住むアパートは古く狭かったが、親子でつつましく暮らすふたりの距離は、他の一般家庭より物理的にも精神的にも近かった。ゆえに、親子の絆は一層深く強いものとなった。


 そんな折、こんなことがあった。

 龍馬が小学5年に上がった頃、ひとりのクラスメイトを殴ってしまったのだ。

殴った理由は、その生徒が英恵の夜の仕事のことを執拗しつよう揶揄やゆしてきたからだった。英恵は学校に呼び出されると、教師と殴られた生徒の親に対し何度も何度も頭を下げた。その姿を横目に、龍馬は両拳を握りしめ、歯を食いしばり涙を必死でこらえていた。それは、母のことを守ろうとし、結果的に母を困らせてしまった自分の不甲斐なさへの怒りであり、悔しさだった。

 

 そして、その帰り道。

 英恵は、なんと龍馬にまで頭を下げたのだった。

「ごめんね、りょうちゃん。ごめんね、りょうちゃん。ママのせいで、つらい思いをさせちゃったね。本当にごめんね、りょうちゃん……」

 英恵は何度も繰り返し、その目からは涙が溢れていた……。


 その帰り道で、龍馬は大人になった。


 もう母を困らせることは、決してしないと誓った。

 同時に、一日でも早く大人になろうと決意した。

 そうすることで、少しでも母を楽にしてあげたかった。

 とにかく、もう二度と母の涙を見たくなかった。


 その日から、龍馬は人が変わったように猛勉強を始めた。

 まだ小学生だったにも関わらず、大人への最短距離を進むという悲壮ひそうな覚悟を抱いていた。まもなく龍馬の成績は他を圧倒し、その地域で「神童」と呼ばれるまでになった。テストでいい点を取る度、母がうれしそうな顔をするので、なおさらがんばった。


 日常では、炊事、洗濯、掃除など、できる限り自分のことは自分でした。

仕事で疲れている母の負担を、少しでも減らしたかった。


 早く立派な大人になって、母を楽にしてあげたい。

 

 ずっとずっと、少年時代の龍馬はその一事いちじだった。

 が、運命は皮肉で、高校に入ってすぐ母が末期のがんであることが判明する。

 ついには、龍馬が大人になりきる前に、母はってしまった。

 結局、自分にはなにもできなかったという後悔だけが龍馬の中に残った。


 ――この後悔こそ、龍馬が政治を志した原点だった。


 それは、救うことのできなかった母への龍馬なりの贖罪しょくざいでもあった。

 母が生きていた頃、龍馬は、いつも心の底でくやしくていきどおっていた。

 頑張っている母に冷たい社会にも、母を助けられない不甲斐ない自分にも。

 龍馬が社会保障改革にこだわったのも、それが理由だった。

 彼にとって政治とは、救えなかったあの日の母を救うことに他ならなかった。

 

 あの日の母を救うことに。


 ◇ ◇ ◇

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