真夜中のギター
尾世海風
真夜中のギター
激しい雨だった。
夜の闇の中、降り続ける雨に全身を打たれながら、男は雨宿りが出来る場所を探していた。
やがて、男は通りの向こうに小さな灯りを見つけた。
水をはねながら行き交う車の間をぬって、男はようやく一軒の店へとたどり着いた。
扉を開くと、そこは小さなバーだった。
カウンター式のテーブルに6つのハイチェアー。
他に客はおらず、マスターが独りで切り盛りしているようだった。
「いやあ、本当にヒドい雨だよ。参った、参った」
男はびしょ濡れになったスーツをハンカチで拭いながら、マスターに言った。
「本当ですね。ここまで激しいのは久しぶりです」
カマーベストに蝶ネクタイ姿のマスターが答える。
年は40代後半といったところだろうか、端正な顔つきだが、どこか表情に乏しい所があった。
マスターから差し出されたタオルで身体を拭くと、男は中央のハイチェアーに腰掛けた。
「ハーパーをダブルで」
オーダーを告げ、改めて店内を見渡す。
マスターの背後、壁一面には多種多様なアナログレコードが並べられ、左右に据えられた大きなスピーカーからは、ジャズピアノによるバラードが心地よい音で流れていた。
どうやら、ここはレコードバーのようだった。
ふと、テーブルに置かれたままの灰皿が男の目に入った。
タバコの吸い殻からは、まだ微かに煙が立ち上っている。
「先ほどまで、いらっしゃったんですよ」
ハーパーのグラスを差し出しながら、男の疑問に答えるようにマスターが言った。
「ちょうど、お客様と入れ替わるように出て行かれました」
そうか、入れ替わりか。
店を独り占め出来るのは得した気がしないでもないが、こんな雨の日には見知らぬ誰かでも、話し相手が欲しい気もした。
「確かに早く帰るのが懸命だね。オレもね、こんなに遅くまでいるつもりじゃなかったんだよ。大雨と知ってれば、早く帰ってたのにな」
ハーパーをすすりながら、男が独り言のように呟く。
「まあ、帰った所で誰も待っちゃいないんだけど」
「お一人なんですか?」
マスターが男に尋ねる。その手には古びたアナログLPが握られていた。
「そうなんだよ、今年で53だけどまだ独身でね。お恥ずかしい話だよ。まあ厳密に言うと、家にはアイボが2匹居るんだがね」
そう言って哀しげに笑う男の目が、マスターの持つアナログLPに向けられた。
「おっ!ホールズワースか!マスター、いい趣味だね。かけてくれよ!」
アナログLPはアラン・ホールズワースの『I.O.U』だった。テクニカルかつ個性的なギタープレイで一斉を風靡したイギリス人ギタリストのフュージョン・アルバムだ。
「これ、学生の頃にめっちゃコピーしたんだよ!でも、全然弾けなくてね。もう、どうやって弾いてるのかすら分からなかったんだから」
スピーカーから流れるサウンドに身を委ねながら、男が興奮気味に語る。マスターは静かに男の言葉に耳を傾けている。
「やっぱ、オレにはこっちの才能は無かったんだよ。結局、商売人だったっんだな」
「御商売は何を?」
チャームの小さな皿をテーブルに置きながら、マスターが尋ねた。
「海外ソフトの販売業さ。デザイン系からゲームまで幅広くやっているよ。こう見えて、オレ社長なんだぜ。ちっちゃい会社だけどね」
男が皿のナッツを頬張る。
「マスター!このナッツ古いんじゃない?全然、味しないよ!」
「いえいえ、そんな筈はないですよ。さっき仕入れたものですから」
男の突っ込みにも、マスターは平然とした様子だった。
「ほんとかな?顔に似合わず調子いいこと言っちゃってさ。オレ、モノの味は分かるほうなんだぜ」
そう言って、口の中のナッツをハーパーで流し込む。
「ん?おかしいな。ハーパーも味がしない。まるで水みたいだ」
男がじっと、グラスを見つめる。
「そうか、いよいよ舌もやられたか。実はずっと通風でね。医者には何度も注意されてるんだ。このままの生活じゃ、いずれ入院だってね」
「まあ、自業自得だよ。好き勝手に生きてきたんだから、どんなバチが当たろうと・・・」
男が視線でマスターの同意を求める。
だが、マスターは無言のまま次のレコードに針を落とした。
流れてきたのはクラシックピアノの旋律、グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』だった。
「おっ!『ゴールドベルク変奏曲』だな。音楽はもう長い間、聴いてなかったんだが、このアルバムは部下に勧められてね。この曲にハマり過ぎて、コンサートにも行ったよ。もちろん、グールドのピアノじゃないけどね。確かつい最近のことで・・・」
レコードに耳を傾けながら、男は記憶を探った。けれども、それが何時のことなのかうまく思い出せなかった。
「あれはいつ頃だ、コンサートに行ったのは?いや、行かなかったのかな?遅れそうになって、タクシー飛ばして行ったような気がするんだが・・・、急な仕事と被ったのかな?」
「ええい、もういいや!とにかく名曲だってことだ!」
男は面倒くさくなったようで、独りで話題を終えた。
そして、改めて壁一面のアナログレコードを見渡した。
「この店は何でもあるのかい?ジャンルの縛りとかはないの?」
「ええ、お客様がお聞きになりたいものなら、何でもございます」
マスターが落ち着いた口調で答える。
「何でも?」
「ええ、何でもございます。よろしければ、お聞きになりたい曲をどうぞ」
マスターに言われ、リクエスト曲を考える男。
「そうだな、やっぱり懐かしいのがいいな」
男は記憶を探っていった。音楽に夢中になった10代の頃から現在に到るまで、思い出の曲や聞きたい曲は山ほどある筈だった。だが、どれだけ考えても、思いつく曲は1曲しかなかった。
「『真夜中のギター』はあるかい?」
曲名を口にして、男は驚いた。
自分でも意外な選曲だった。
1969年に発売された千賀かほるのデビューシングル『真夜中のギター』。
本当にこれが自分のリクエストなのか?
聞きたいような、聞きたくないようなそんな気持ちだった。
「『真夜中のギター』ですね、もちろん、ございます」
そう答えると、マスターはターンテーブルにEP盤をセットして、ゆっくりと針を落とした。
スピーカーからは、千賀かほるが歌う『真夜中のギター』が流れ始めた。
“街のどこかに 淋しがり屋がひとり いまにも泣きそうに ギターを奏いている”
その歌声に、男は静かに耳を傾けていた。
どれ位ぶりに聞くのだろう?
もう思い出せないくらいだった。
そもそもが、自分が幼いころに発表された曲だ。
だが、メロディも歌詞もしっかりと覚えている。
いつしか、男はレコードに合わせてメロディを口ずさんでいた。
“愛を失くして なにかを求めて さまよう 似たもの同士なのね
此処へおいでよ 夜はつめたく永い 黙って夜明けまでギターを奏こうよ”
男の歌声は次第に大きくなっていった。
それにつれて、自分の内側から熱いものがこみ上げてくるのが分かった。
その熱が硬く凍った心の壁を溶かし始めると、懺悔の気持ちが波のように一気に押し寄せてきた。
男の目から涙が溢れ出た。
「・・・“今崎美奈子”、それが彼女の名前だ・・・。彼女はこの曲が大好きだった」
男はマスターの目を見つめながら、訴えるように語りだした。
「オレ達は恋人であり、互いにミュージシャン志望だった。そして、よくこの曲を二人で演奏した。近くの公園や四畳半のアパートで、オレのギター伴奏で美奈子が歌うんだ」
レコードの千賀かほるは、二番の歌詞を歌い始めていた。
マスターは無言のまま、男の言葉にじっと耳を傾けている。
「美奈子は全て捧げてくれた。オレがはじめての恋人だったんだ。オレもどこまでも美奈子と生きていくつもりだった。本気だったよ。だが、オレには才能も思いやりも無かった。あったのは・・・、ずる賢さだけだった」
溢れ出てくる涙をそのままに、男は続けた。
「ある日、魔が差してしまった。借金苦から逃れるために、オレは美奈子のギターを盗んで逃げ出したんだ」
「60年製のマーティン、美奈子の宝物だったのに・・・」
まるでそのギターを探すかのように、男の目が店内を見回す。
「ギター売った金で借金を返済し、オレは音楽を辞めた。そして、心を入れ替えて、社会人としていちからやり直した。今度はがむしゃらに働いたさ!」
吐き出すように言ったあとで、男は大きなため息をついた。
「でも、そんなのは、ただの言い訳だ。大切な人を裏切った事実は変わることはない・・・」
男はテーブルに顔を埋めると、大声をあげて泣き出した。
「だから、あなたは独り身のままだったんですか?」
顔を埋めたままの男にマスターが尋ねた。
「・・・それは分からない。美奈子を裏切ったせいで、逆に他人が信じられなくなったのかもしれない。だが、彼女以上の女性に会うことが無かったのも事実だ。純粋にオレだけを愛してくれた美奈子・・・。彼女を裏切った罪によって、オレの人生は罰せられたんだ!」
そう言って、男は再び号泣した。
いつしか、レコードも終わりを告げていた。
行き場を失った針が、溝の中を空回る音だけが静かに響いていた。
「マスター、もう1曲リクエストできるかな?」
不意に男が顔を上げて尋ねた。
その顔は涙でぐしょぐしょになっていた。
「いえ、先ほどの曲がお客様のラストナンバーでした。これ以上のリクエストはお受け出来ません」
マスターの言葉に一瞬、驚く男。
だが、やがて合点したようにゆっくりと頷いた。
「・・・そうだった、思い出したよ。オレは死んだんだった。コンサート会場へと向かう途中、乗っていたタクシーが正面追突したんだ。大雨の中、車外に放り出され、道路に叩きつけられて・・」
男が後頭部を手で探る。そこにはべっとりと血がついていた。
「雨に打たれながら、なんで救急車が来ないんだって思ってたんだ。そしたら、いつの間にか、オレ自らがここに来ちまったって訳か・・・」
テーブルに身を乗り出し、マスターに尋ねる。
「マスター、ここが“あの世”なのか?」
「いえ、この店はその手前、お客様が人生の最後の曲を聴きに来る場所です。これから向かわれる旅に備えて」
「旅?おれが向かう先は天国なのか?それとも?」
「申し訳ございません。私にはこの店のことしか任されておりませんので・・・」
そう言って、マスターは首を横に振った。
「では、お客様。そろそろご出発の時間でございます。お出口はあちらになります」
マスターが出口を指さす。
見ると、入ってきた時とは反対の場所に扉が移っていた。
男はひとり頷いた。
その顔は全てを理解したような、すっきりとした表情だった。
ハイチェアーから立ち上がると、手を差し出してマスターに握手を求めた。
「ありがとう、最後に『真夜中のギター』が聴けて良かったよ。おかげで大事なことを思い出せた」
「お役に立てて何よりです」
マスターも軽く頭を下げる。
「もし来世があれば、もう大切な人は裏切らないと誓うよ」
穏やかな笑顔でそう告げると、男は指し示された出口からゆっくりと出ていった。
扉が閉まる時、微かに男の歌声が聞こえた。
“空をごらんよ 淋しがり屋の星が なみだの尾をひいて どこかへ旅に立つ”
それは『真夜中のギター』の2番の歌詞だった。
男が去ると、店内にはマスターがひとり残された。テーブルの上には、男の飲みかけのハーパーが置かれたままだった。
だが、それも束の間のことだ。
少しすれば、また次の客がやってくるだろう。人生のラストリクエストを求めて・・・。(終わり)
真夜中のギター 尾世海風 @OseKairan
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