第13話 NE・ZU・МI
母は昔から乳児と触れ合う機会があるたび
「ミルクのいい匂いがするわ。ネズミに齧られちゃうわね」
と言う。必ず言う。
自分は長らく母のこの言葉を聞き流していたのが、よくよく考えるとこれ、ものすごく怖いこと言ってないか? とあるとき気付いた。
家にはたくさんのネズミがいた。
天井からはいつもネズミの駆けまわる足音が響いていたし、床やら棚の上やら、果ては食器棚の中にまで、ネズミのフンが落ちているという有様だった。
当時はこれを普通に受け入れていたが、今振り返ってみると、よくもあんな環境にいて、家族の誰も変な病気にかからなかったなと驚愕する。
基本は姿を隠しているネズミだが、やはり暮らしていれば嫌でも目に入ってしまう。
人の近づく気配に気づいてサッと身を隠すネズミの後ろ姿だったり、天井の隙間から垂れるしっぽだったり、梁の上を走り抜けていくところだったりを、時々目撃した。
初めてネズミ捕りにかかったネズミを見たときには、胸が痛んだ。ネズミは愛嬌のある顔をしていた。ハムスターのような媚びた可愛さではない、素朴な可愛さがネズミにはあった。
家族はあちこちにネズミ捕りを仕掛け、ネズミの駆除に対してはゴキブリやハエ以上に熱心だった。
まだネズミの怖さを知らなかった自分は、ネズミ可愛いんだから放っておいてやればいいのに、と呑気に考えていた。
大人になってから読んだミステリー小説の中に、衝撃の記述を見つけた。小説の中で、犯人は狙った相手をネズミに襲わせるという殺害方法をとっていた。
読んだ瞬間「怖っ!」と思わず声を上げた。
――ネズミって、人を襲うの?
長くネズミと共存しておきながら、初めて知った事実だった。
ということは、自分は子どもの頃、いつネズミに齧られるかという危機の中で、毎晩眠りについていたことになる。
そう思い至ったとき、ある記憶が蘇った。
深夜、ふと目を覚ますと、梁の上に一匹のネズミがいた。
豆電球の頼りない灯りの中でも、自分とネズミが確かに視線を交えていることを、感じ取った。ネズミは逃げも隠れもせず、じっとこちらを見下ろしていた。
昼間にネズミを見かけてもなんとも思わない。しかしそのときの自分はなぜか、背筋に冷たいものを感じていた。このネズミは、何かが違うと思った。
張りつめた空気が流れた。
そのまましばらくネズミとにらみ合っていた。
やがてネズミはふいと体の向きを替え、天井へ消えた。
あの夜の緊張感と、ネズミへの違和感。
ネズミが人を襲うと知らなくても、子どもの自分は本能的に気付いていたのではないか。ネズミはさっき、寝ている自分を襲おうとしていた。
あの瞬間、自分は初めてネズミに怯えたのだった。
そうなると俄然、母の「ネズミに齧られちゃうわ」というセリフがシリアスに聞こえてくる。
自分は「レミーのおいしいレストラン」で老女がネズミにショットガンをぶっ放すシーンを見るたび、いくらなんでもやりすぎだろうと思っていた。家、壊れちゃってるじゃねえかと。
しかしネズミについての真実を知った今なら、老女の行動におおいに賛成できる。あれは全然、やりすぎじゃない。それくらいネズミは恐ろしいのだ。
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