第10話 地獄鍋

 祖父のお陰で、子ども時代の食卓はとても豊かだった。

 ただし中には、どうしても受け入れられない料理もあった。


 川魚好きだった祖父は、よくバイクを飛ばして鯉のあらいを買いに行っていた。

 鯉のあらいを販売している店は限られていて、祖父が贔屓にしている店は奥まった場所にあった。看板は出ておらず、一見すると何の店だかわからない。それ以前に、店だということさえわからない。そんな場所と店構えの影響からか、鯉のあらいを買うときの祖父は、まるで人目を忍んでいるかのように見えた。

 祖父は店の前まで行くと、静かに引き戸を開け、中に向かって「あれちょうだい。いつもの」と小さく声をかける。しばらくそこで待つと、おもむろに戸が開き、深緑色の紙包みが出てくる。包みを受け取った祖父は「さあ、早く行くぞ。バイクに乗れ」と、ここまで同行してきた自分を急き立てる。祖父は一刻も早く店の前から立ち去りたそうだった。なんだかいけない取引現場に同席したようで、緊張したのを覚えている。実際取引しているものは、鯉のあらいなのだが。

 そうやって手に入れた鯉のあらいを、祖父はいつもひとりでうまそうに食べていた。一度、「おまえも食べてみろ」と祖父が言うので、試しに口に運んでみたが、その泥臭さは子どもにはだいぶキツイものだった。一口噛んだ瞬間、自分は盛大にえづいた。祖父はなぜこんなものをわざわざ、知る人ぞ知るみたいな店まで買いに行っているのだろうと思った。

 以来、川魚は自分にとって注意すべき存在となった。


 鯉のあらいの洗礼を受けて間もなく、自分はそれを遥かに超える食べ物と出会った。


 初めて見たときのそれは、ただのミートボールだった。子どもはみんなミートボールが大好きだ。自分も妹も、大皿に山盛りとなったミートボールを見つけて、小躍りした。

 だが一口食べて、悶絶した。鯉のあらい以上の臭みが襲ってきた。それはミートボールではなく、ナマズ団子だった。


 家にはナマズ団子を作るための、専用の機械があった。

 ナマズを丸ごと一匹機械の中に入れ、レバーを回す。すると先端からミンチにされたナマズ肉が、にょろにょろと出てくる。それをちぎって丸めて油で揚げれば、ナマズ団子の出来上がりだ。

 おそらく臭みとりも何もせずに作ったであろうそれは、泥臭く、生臭く、悲しくなるほどまずかった。噛むとゴリゴリと口の中にナマズの骨が突き刺さり、揚げすぎていて肉質自体はパサパサしていた。

 きちんと下処理をして、相応の調理をすれば、きっとナマズはおいしいのだろう。

 しかし最初に口にしたナマズ団子の衝撃で、自分はナマズそのものを受け付けられなくなった。ナマズに罪はなく、悪いのは調理法だ。一体全体、誰が最初にナマズ団子なる料理を考案し、食卓に並べだしたのか。


 ナマズが手に入るたびに大量調理されるナマズ団子を、家族は暗い顔で、機械的に食べ進める。ナマズ団子を喜んでいるのは、祖父だけだった。



 鯉のあらいに、ナマズ団子。

 子どもの頃、悪夢を見させられた食べ物。

 その集大成となる料理が、冬になるとたびたび食卓に上がった。鍋だ。


 鍋を作るのは、祖父の仕事だった。

 大家族だったので、使う鍋は、一般家庭ではおよそ見かけないサイズのもの。炊き出しにでも用いそうなほどの大きさの鍋に、祖父はどんどん具材を切っては、投げ入れていく。

 畑で採れた野菜類、肉類、豆腐、こんにゃく、しらたき――。こんにゃくもしらたきも下処理していないので、すごい生臭さだ。しかしこの時点ではまだ、食べても大丈夫そうな雰囲気である。

 この後さらに、祖父はぶつ切りにしただけの魚をじゃんじゃん鍋に加えていく。鱗も内臓もすべて仲良く鍋の中へ。

 カオスとなった鍋を、祖父は大量の酒と醤油で味付けする。そうして後はひたすらグラグラと火にかけるだけ。鍋を煮ている間中、ものすごい臭気が辺りに漂った。特に酒の臭いが強く、家の中にいるのもしんどいほどだった。


 夕食時になり、食卓にはででんと巨大鍋が乗る。ものすごい存在感。圧倒的禍々しさ。

 鍋の蓋を取れば、またしても異常な臭気。煮込まれすぎた鍋は、もはや食べてはいけない見た目をしている。まさに地獄の様相。この鍋に極めて近い食べ物を、後年自分は発見する。ジャイアンシチューと呼ばれるものだった。


 各々が鍋の中身をよそい、夕食がはじまる。

 でろでろに煮込まれ野菜を啜ると、一緒に魚の鱗なんかもついてきて、咳き込む。自分は早々にギブアップして、その後はふりかけごはんだけでしのぐ。

 一方で、家族は頑張っている。臭みと戦いながら、鍋を食べ続けている。祖父は毎回、尋常じゃない量を作る。一度の鍋で、夕食五日ぶんくらいはある。鍋の中身が完全に空になるまで、同じ夕食が続く。最終日、鍋の汁は黒紫色になっている。しかるべき呪文を唱えれば、奇怪な生き物でも召喚できそうな雰囲気だ。

 それを食べる家族の絵面も、なかなかキテいる。

 ボロボロの家の中で、黒紫色の汁をすする様は、まるで地獄で拷問を受けているような絶望感、悲壮感。

 喜んで食べているのは、やはり祖父ひとりだけだった。


 冬の間、月の半分はこの鍋が夕食となる。

 春を迎える頃、家族はみんなちょっと痩せている。


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