いつかではなく、今すぐにでも

君の手を、覚えている


 五歳年下のフェリエナが生まれた時、グスターは天使が我が家にやってきたのだと、子ども心に本気で信じた。


 それほど、初めてできた妹は愛らしく……。グスターは毎日、それこそフェリエナの乳母が呆れるほど、妹の顔を見に行っては、飽きもせず、怒った家庭教師がグスターを連れ戻しに来るまで、愛しいフェリエナを眺めていた。


 初めてフェリエナがグスターの指を握ってくれた時には、あまりの嬉しさに叫んでしまい、驚いたフェリエナが泣き出して、結局、申し訳なさでグスターまで泣き出してしまい、乳母をほとほと困らせた。


 フェリエナが「あー、うー」と話せるようになった時には、早く自分の名前を呼んでほしくて、フェリエナの顔を見るたびに、


「僕はグスターだよ、グスター。早く言えるようになってね」


 と話しかけ、よちよち歩きができるようになった時には、常にフェリエナの隣でエスコートし……。


 いつか、フェリエナが幸せな結婚をして、グスターの元を離れるまで、グスターがフェリエナを守る騎士を任じるのだと、幼いグスターは疑いもなく、信じていた。


 グスターとフェリエナを生んだ母が病で死に、父が新しく若い後妻をめとると決めるまでは。


 新しい後妻は、自分の血を引く子どもにロズウィック家を継がせたかったらしい。


 だが、幼くして家庭教師達から優秀だと褒めそやされ、嫡子ちゃくしであるグスターを、父は手放そうとしなかった。


 対して、長じても政略結婚の駒にしかならぬ娘のフェリエナは――。


 フェリエナと引き離されることになった時の痛みと哀しみは、今もグスターの胸の奥底で眠り続けている。


「おにいちゃま!」


 と泣きじゃくって、グスターの手を掴んで放さなかった妹の小さな手を――グスターは、一生忘れないだろう。



 結局、後妻に子宝が授からず、フェリエナが婚約のために修道院から帰ってくることになったのは、グスターが十八になった年のことだった。


 十年の時を経て、天使のように愛らしい幼子から、可憐な少女へ変貌を遂げたフェリエナを目にした瞬間、グスターは思わず人目も忘れて、フェリエナを思いきり抱き寄せるところだった。


 不安と憂いに怯えながらも、新緑の瞳に親愛をこめて見つめてくれたフェリエナの信頼に、なんとしても応えたくて。


 だから……。

 父がロズウィック家のためにフェリエナに用意した婚約者が、フェリエナの傷だらけの手を「おぞましい」と言い放って婚約を破棄した時、グスターは生まれてこのかた、一度も申し込んだことのない決闘を、危うく申し込むところだった。


 顔を蒼白にしながらも、フェリエナが止めてくれたおかげで、なんとか理性を取り戻せたが。


 爵位が低いながらも裕福なロズウィック家が、婚姻で今以上に勢力を伸ばすのを阻止したいやからは、思った以上にいたらしい。


 グスターが手を打つ間もなく、不名誉な噂は、勝手に尾ひれをつけて社交界に広がり――フェリエナは、あっという間に令嬢失格の烙印を押されてしまった。


 政略結婚の駒として使う当てが外れた父は怒り狂ったが、グスターは正直、フェリエナが不幸な結婚をするくらいなら、しばらくグスターの庇護下で、好きな植物を育てて暮らすのもいいかもしれないと思ったものだ。


 成人したグスターはもう、父親の強権に抵抗できない幼子ではない。父の意向を無視して、大切な妹に好きなことをさせてやれるだけの力もあった。


 ……まさか、五年もの間、ろくな求婚者が現れないとは、さすがに予想していなかったが。



 アドルと初めて会った日を思い出し、グスターはくつくつと喉を鳴らした。


 フェリエナの不名誉な噂を知らぬ彼ならばと、アドルの人柄を見込んで引き合わせたグスターの目に、狂いはなかったわけだ。


 大切な妹を遠く離れた異国に嫁にやるのは、不安がないでもなかったが……。それがフェリエナの幸せのためなれば、我が身の寂しさなど、何ほどでもない。嫁入り道具も、グスターの力の及ぶ限り、整えた。


 嫁いでからもフェリエナは、数カ月に一度は手紙を送ってくれた。

 一度、早急に、できるだけ多くのパタタを手に入れたいという手紙が届いた時は驚いたが、伝手つてを使って、なんとか送ることができた際は、ほっとしたものだ。フェリエナが頼ってくれるのは、素直に嬉しい。


 自室の執務机の椅子にゆったりと背を預けたグスターは、机の上に重ね置かれた手紙の中から、一番上の一枚を手に取った。


 昨日、フェリエナから届いたばかりの手紙だ。


 昨日から、この手紙を見るたびに、口元がほころぶのを抑えられない。


 ヴェルブルク領で幸せに暮らしていることがうかがえる筆致で書かれた手紙の最後には、黒インクの小さな花が咲いていた。


 いや、花に見えるそれは、インクで押された赤子の小さな手形だ。


 文末には、いつか機会があったら、ヴェルブルク領に遊びにいらしてくださいと書かれている。


 もちろん、いつか、ではなく、グスターの都合がつき次第、出発するつもりだ。両手に抱えきれないほどの贈り物を持って。


 フェリエナの娘なのだ。きっと、天使のように愛らしいだろう。

 姪っ子に会うためならば、多少の無理をして、予定が過密になる程度、望むところだ。


 グスターはゆるりと微笑むと、小さな手形に指先を伸ばした。


 愛おしく、花びらのように愛らしい手形を指先で辿る。


 昔、まだグスターが小さかった頃、つないでいたもっと小さな手を、グスターは守りきれなかった。

 戻ってきたフェリエナの、傷だらけの手を慈しんだが……グスターでは、心の傷までは、癒せなかった。


 だが、グスターの手元から巣立っていった愛しい妹は、遠く離れた異国の地で根を下ろし、可憐に、力強く咲き誇っている。


 そばにいてやれなくて、歯がゆく思う気持ちはもちろんある。


 だが、それ以上に祈るように願うことは。

 たとえ、どんなに離れていても。


「愛しているよ、フェリエナ……。いつも、お前と、お前の愛しい者達が、幸せであるように……」


 グスターは、真摯しんしな祈りを込めて、呟いた。


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