ヴェルブルク領の恵みの秋

幸せを、こいねがう


「アドル様、落ち着かないお気持ちはお察ししますが……」


 うろうろと廊下を行ったり来たりするアドルをたしなめるように、ギズが声をかける。


「仕方がないだろう⁉ これがじっとしていられるか⁉」


 思わずアドルがきつい口調で応じると、ギズは、はあっ、と深く吐息した。


「……確かに、わたしですら、仕事が手につかず、ここにおりますから……」


 フェリエナがヴェルブルク領に嫁いできて二度目の秋。フェリエナが持ち込んだパタタは着実に領内に広まっており、アドルもギズも、毎日、忙しい日々を過ごしている。


 が、今日ばかりは……。


 ギズが気遣わしげな視線をアドルに向ける。


「お気持ちはわかりますが、アドル様がそう浮足立ってらっしゃると、中はさらに落ち着かぬでしょう。ここにいらっしゃるのでしたら、椅子でもお持ちしましょうか?」


 ギズの言葉に、アドルはようやく足を止める。

 ギズの言う通り、領主が廊下をうろうろしていては、他の者も落ち着かぬだろう。


 アドルは深く長く吐息して、不安を吐き出した。

 石壁に背中を預け、見つめた先は、フェリエナの自室の扉だ。


 固く閉ざされた扉の向こうからは、フェリエナの苦しげなうめきが、とぎれとぎれに聞こえてくる。


「奥方様、息を止めてはなりません! そう、ゆっくりで大丈夫です。息を吐いて……。つらかったら、我慢せずに声を上げていいんですよ」


 フェリエナに優しく、時に力強く励ます産婆の声も。

 フェリエナは今、新しい命を誕生させようと、痛みと苦しみに立ち向かっている。


(神よ……。どうか、どうかフェリエナと赤子を無事に……!)

 アドルは両手を組み、神に一心に祈るしかできない。


 自分の無力さが情けない。


 夜明け前から陣痛が始まったフェリエナは、もう何時間も痛みに苦しんでいる。

 朝には城の馬車で迎えにやった産婆と、この春から弟子入りした若い娘も城へ来て、メレもフェリエナにつきっきりになっているが……。


 初産は時間がかかると聞いている。

 だが、もう昼過ぎだ。時間がかかり過ぎではないだろうか。


 グレーテのことが脳裏をよぎり、ぞっ、と全身から血の気が引く。グレーテは、何とか赤子を産むことはできた。だが、その後は――。


 出産は、女性にとっては命懸けのことだ。難産で命を落とす者も少なくない。


 もし、フェリエナを奪われたら――。

 そう考えるだけで、恐怖に胸が張り裂けそうになる。


 フェリエナの苦しげな声は、途切れることなく続いている。


 変われるものなら、今すぐフェリエナの痛みを我が身に引き受けたい。

 白く骨が浮き出るほど拳を握りしめ、神への祈りを紡いでいると。


 ひときわ高い、フェリエナの声が聞こえた。


 続いて、力強く泣く、赤子の声。


 わあっ、と扉の向こうで歓喜の声が上がる。

 弾かれたように顔を上げたアドルの眼前で、扉が細く開く。顔をのぞかせたのは汗だくになり、目を涙で潤ませたメレだった。


「おめでとうございます! 無事、お生まれになりました! 元気な女の子でございます!」


 とっさに、言葉が出てこない。

 呆然とするアドルに微笑みかけると、メレは、


「もう少しお待ちください。入っていただけるようになりましたら、お呼びいたしますから」


 と、静かに扉を閉めた。

 扉が閉まっても、なおもほうけていると。


 不意に、隣に立っていたギズに、両手で強く手を握られた。


「アドル様……っ! おめでとうございますっ!」

 ギズの声もメレと同じく潤んでいる。


「あ、ああ……」

 かすれ声で答えたアドルは、そのまま、ずるずると床にくずおれた。


「アドル様っ⁉」

 ギズがあわてて床に膝をつく。


「……った……」


「はい?」

 言葉にならぬ声を洩らしたアドルに、ギズが首をかしげる。


「よかった……っ! 無事に、生まれてきてくれて……っ!」


 アドルは震える声を喉の奥から絞り出す。

 張り詰めていた緊張の糸が切れてしまって、立てそうにない。


 赤子は弱い。無事に成長できるという保証など、一つもない。

 けれども、今だけは。


 この喜びを、全身で味わいたい。


「ええっ、本当に……っ!」


 ギズと二人、手を取り合って喜びにひたっていると、そっと扉が開けられた。


「アドル様、お待たせいたしました。産湯を使い終わりましたので、どうぞ」


 メレに導かれ、アドルだけが入った部屋では、ガウンを肩にかけ、寝台に上半身を起こしたフェリエナが、おくるみに包まれた赤子に、乳をふくませていた。


 出産という難事を乗り越え、へとへとに疲れているだろうに、フェリエナはアドルの姿を見た途端、嬉しそうに顔をほころばせる。

 汗で額に髪が張りつき、疲れ果てた様子で、それでも何よりも幸せそうに微笑む妻の笑顔を、アドルは今まで見たどんな姿よりも美しいと思う。


「フェリエナ……。ありがとう……っ。大変だっただろう。なんと感謝を伝えたらよいのか……!」


 メレが気を利かせて寝台のそばにおいてくれた椅子に腰かけ、アドルは愛しい妻に微笑みかける。

 ふれたら壊れそうに小さい拳をぎゅっと握りしめ、懸命に乳房に吸いつく赤子の姿を見ていると、それだけで目頭が熱くなってくる。


「ありがとう……、本当に……っ」

 うまく言葉が出てこない。


 と、フェリエナがふわりと花のように微笑んだ。


「生まれたいと、この子自身が頑張ってくれたのですわ。ですが、その……。申し訳ございません。お世継ぎではなく……」


「何を言うのです! 男か女かなど、関係ありませんっ! 無事に生まれてくれれば、もう、それだけで……っ!」


「ありがとうございます。アドル様なら、そうおっしゃってくっださると、信じておりました」

 フェリエナが安心したように微笑む。


「その……。ふれても、いいでしょうか……?」


 おずおずと問うと、フェリエナが「もちろんです」と大きく頷く。


 おそるおそる、アドルは指先を伸ばした。

 ちょん、と小さな頬にふれる。


 うっかりふれると壊してしまいそうで、こわい。

 赤子はふれられたのにも気づかぬ様子で、もごもごと口を動かしている。


「……貴女と同じ髪の色ですね」

 産湯でしっとりと湿っている赤子の髪は、フェリエナと同じ栗色だ。


「瞳の色は……。起きた時のお楽しみですわね」


 疲れたのか、胸から小さな口を離し、寝息を立て始めた赤子を愛しげに見やって、フェリエナが口元をほころばせる。


「フェリエナ様。眠られたのなら、お嬢様をいただきましょう。フェリエナ様も、身体を休められなくては……」

 メレが遠慮がちに声をかける。


「もう、少しだけ……」

 ふる、とかぶりを振ったフェリエナは、新緑の瞳でアドルを見つめた。


「あの、アドル様……」

「どうしました?」


 アドルはにこやかに微笑んで、妻の視線を受け止める。


「この子の、名前なのですけれど……」


 ためらいがちに、一度、唇を引き結んだフェリエナが、きっぱりとした声を出す。


「アドル様と、そしてギズが許してくださるのでしたら、グレーテと名づけてもよろしいですか?」


「っ⁉」

 アドルは思わず息を飲む。


 震える両手で、そっとフェリエナの左手を包み込み。


「フェリエナ、貴女あなたは……。いったい、どれほどの恵みを我が領にもたらしてくださるのですか……?」


 喉の奥がひりついて痛い。

 目頭が熱くて、最愛の妻と我が子の姿がにじんでしまう。


 うしなわれた命は、決して戻らない。


 けれども、生きている限り、人は痛みを乗り越え、また前を向いて歩いて行かねばならぬのだから。


 哀しみも喜びも、その胸に抱いて。


 フェリエナの左手を右手で握りしめたまま、アドルはそっと我が子の小さな手に左手を伸ばす。

 眠ったまま、グレーテがアドルの人さし指を、小さな拳できゅっと握った。


 アドルは、あふれそうになった嗚咽おえつを、なんとかみ殺す。


「グレーテ……。愛しい我が子……。お前の人生が、幸せに彩られていることを、願っているよ……」


 人生で何が起こるかなど、神ならぬ人の身では知りえない。


 だが、アドルは確信する。

 今、己の手の中にある二つの宝を守るためならば、自分はなんだってするだろうと。


「フェリエナ……。本当に、感謝している」


 メレや産婆達がいるが、かまわない。


「貴女を妻にできたことを、今ほど幸せに思ったことはありません。愛しています」


 アドルは抑えられぬ愛しさに、腰を浮かすとフェリエナの額に、そっとくちづけた。


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