3 甘いあまい願いごと


「えーと……。俺は、席を外しているよ」

「すまん、エディス」


 エディスが部屋を出、ぱたりと扉を閉めた音が聞こえる。かと思うと。


「きゃあっ⁉」

 突然、力強い腕に横抱きにされ、フェリエナは思わず悲鳴を上げた。


「いったい、どうされたのです?」


 秀麗なアドルの面輪が、すぐ近くでフェリエナをのぞきこんでいる。

 群青の瞳に宿るのは、心からフェリエナを心配している、真摯しんしな眼差し。


「貴女のためにできることがあるのでしたら、何なりとおっしゃってください。貴女の憂いを取り除くためならば、どんなことでもいたしましょう」


 思いやりにあふれた言葉に、胸の奥が熱くなる。


「そ、その……」

 アドルに見つめられている顔がますます赤くなるのを感じながら、フェリエナは意志の力を振り絞って、言葉を紡ぐ。


「今朝……。会う方、会う方がわたくしに笑顔でおめでとうございますと、祝福の言葉を……。わ、わたくし、戦に勝ったからだと思っていたのですが……。そ、その……」


「ああ」と、アドルが得心いったように苦笑する。


「わたしも、朝から会う者、会う者に口々に言われました。……どうやら、わたし達は、ずいぶん従者達に心配をかけていたらしい」


 アドルの言葉に、ああやっぱり、と自分の推測が当たっていたことを知る。


 あの「おめでとうございます」は、勝利の祝いではなく、アドルとフェリエナに向けられたもので、ということは、つまり……。


「~~~っ!」


 フェリエナは声にならぬ悲鳴を上げて、深くうつむいた。

 貴族ならば、初夜に扉の外で立会人がいる場合があることも、従者達が純粋に心配してくれていたことも理解できるが、だからといって、恥ずかしさが消えるわけではない。


 穴があったら入りたい。恥ずかしすぎて、今にも涙があふれてきそうだ。


 と、フェリエナを横抱きにしたまま、アドルが椅子に腰かける。フェリエナの膝を支えていた手が離れ、代わりに硬い太ももがフェリエナを支えた。


 いまだ顔を上げられないでいるフェリエナの頬に、アドルの手が優しくふれる。


「フェリエナ」


 優しく甘い声におずおずと顔を上げた途端、くちづけられた。


 心臓が、今まで以上に跳ねる。

 けれどもアドルのくちづけは甘く、優しく……気を抜けば、すぐに思考がけてしまいそうになる。


 十分に長い間、くちづけていたアドルが唇を離し、フェリエナと視線を合わせて微笑む。


「申し訳ありません。わたしが不甲斐なかったせいで、貴女に恥ずかしい思いを……」

 「ですが」とアドルが柔らかに微笑む。


「きっと、すぐに誰も口に出さなくなります。珍しいから、噂になるのです。それが日常になれば……気にする者など、おらぬようになるでしょう?」


「あ、あの……」


 ぼうっとなってしまった頭が、アドルの言葉を理解より先に、フェリエナの耳朶じだに口元を寄せたアドルが、甘く囁く。


「貴女との夜を知ってしまった今、一人寝のわびしさを味わう気にはなれません。どうか、わたしに毎夜、貴女の隣で眠る喜びを与えてくださいませんか? ……むろん、貴女に無理強いをする気はありませんが」


 群青の瞳が、フェリエナの面輪をのぞきこむ。


 アドルの眼差しを直視できず、フェリエナは思わず目を固く閉じて、顔を背けた。

 自分の顔が、耳どころか首まで。いや、全身が熱くなっているのがわかる。


「ア……」

「はい?」


 震える声を何とか絞り出すと、柔らかな声が返ってきた。

 まるで蜜のように甘い声が、潤滑油のようにフェリエナから言葉を引き出す。


「……ア、アドル様に望んでいただいて、嫌だなどと、思うはずがないではありませんか……」


 告げた瞬間、アドルの手が頬にふれ、強引に振り向かされる。かと思うと、ふたたび唇をふさがれた。


 抑えきれぬと言いたげな、情熱的で甘いくちづけ。

 混ざり合う熱に翻弄され、思考がける。

 れた呼気さえアドルに甘く飲み干され、身体から力が抜けていく。


 いつのまにか、床へ落ちてしまった髪覆いからこぼれ出た髪に長い指を梳き入れ、アドルがフェリエナをかき抱き――。


 どれほど、くちづけを交わしていただろうか。


 アドルが、ゆっくりと唇を離す。力強い腕がフェリエナを胸元に抱き寄せた。


「……本当に……。貴女は反則すぎます……」


「……?」

 ぼうっ、とアドルを見上げて小首を傾げると。


 アドルが秀麗な面輪に困り果てた笑みを浮かべて、フェリエナを見つめていた。


「そんな愛らしいことを言われては……。今すぐ、貴女を寝台に連れ込みたくなってしまいます」


「え……っ」


 思考が、止まる。

 フェリエナはアドルと視線を合わせたまま、動けない。


 と、アドルが、ふ、と吐息とともに笑みをこぼす。


「大丈夫です。貴女が嫌だと思うことはいたしません。それに……」

 武具と書類にあふれた執務机を見て、アドルが嘆息する。


「領主の務めを放り出すわけにもいきませんしね。……貴女に情けない男だと見限られたくない」


「そんなこと、いたしませんわ!」

 反射的に言い返すと、アドルがとろけるような笑みを浮かべた。


「では、貴女の信頼に応えるためにも、頑張らなくては」

 そっと、唇にくちづけが下りてくる。


「その代わり、夜は貴女を存分に味わわせてください」


 心どころか、身体まで融けてしまいそうな甘い言葉と、蜜のくちづけ。


 答える代わりに、フェリエナは、そっと自分の手をアドルの指先に絡めた――。


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