一夜が明けて……。

1 甘い夜の名残 


「んん……」

 寝返りしようとして、フェリエナは身体が思うように動かないことに気がついた。


 驚いて、まぶたを開け――、息がかかるほどの近さに、アドルの秀麗な面輪があって、心臓が止まりそうなほど、驚愕する。


 すでに目を覚ましていたらしいアドルは、視線が合うと、とろけるような笑みを浮かべた。


「おはようございます。……その、お身体の方は、大丈夫ですか……?」


 頬を赤らめたアドルに問われ、寝入ってしまう前のことを思い出す。

 途端、全身が、かぁっと熱を持つ。


 アドルもフェリエナも、一糸まとわぬ姿だ。

 自分のものではない、もう一つの熱を持った身体が密着していて、混乱の極みに陥る。


「あのっ、そのっ、その……っ、だ、大丈夫です!」

 違和感はある気がするが、そんなものは、羞恥の前に吹き飛んでしまう。


「よかった……」

 安堵した笑みをこぼしたアドルが、フェリエナの身体に回していた腕に力を込める。


 額に優しいくちづけが降ってきて、フェリエナは思わずうつむいた。


 本当に、夫婦になれたのだという喜びが、じわじわと心に広がっていく。

 大げさかもしれないが、まるで生まれ変わったかのような、さなぎが蝶へと羽化したような心地がする。


「湯を使われたいでしょう。侍女に言って用意させましょう」

 アドルがそっと腕をほどき、身を起こす。


「あ、あの……」

 アドルのぬくもりが離れていく寂しさに、思わず声が出てしまう。


「? どうしました?」

 動きを止めたアドルに、顔をのぞきこまれ、フェリエナは大いに慌てた。


 何か、明確に伝えたい言葉があったわけではない。

 けれど、アドルを引きとめずにはおれなくて。


「そ、その……っ、ありがとう、ございました……」


 心がふわふわと浮き立つような幸福感を、どうやってアドルに伝えたらよいのか、わからない。


 けれど、アドルを引きとめずにはおれなくて。

 適した言葉が見つからず、結局、ありきたりの感謝の言葉になってしまう。


 と、アドルの秀麗な面輪がくしゃりと歪んだ。


「何をおっしゃいます。礼を言うのでしたら、わたしの方でしょう?」


 困ったように微笑んで、アドルがフェリエナの髪をくしゃりとでる。


「可愛いことを言って、あまりわたしを惑わせないでください。……寝台から、出られなくなってしまいます」


 長い指先が、名残惜しげにフェリエナの栗色の髪をく。


「湯浴みの後は、朝食もこちらへ運ばせましょう。どうぞ、今日は一日、ゆっくりと休んでください。わたしはもう、行かねばなりませんが……」


 指先に絡めたフェリエナの髪を一房持ち上げ、アドルがそっとくちづける。


「貴女が呼んでくださいましたら、何があろうと、すぐに駆けつけますから」


  ◇ ◇ ◇


 湯の用意は、驚くほど早かった。おそらく、メレが気を利かせて準備してくれていたのだろう。


 下女達に指示を出し、大きな湯桶をフェリエナの寝室に運び入れたメレは、満面の笑顔だった。


「お待たせいたしました、フェリエナ様」


 下女達が部屋を出て行き、メレ一人が残ったところで、声をかけられる。

 そろそろとフェリエナが寝台から出た途端、メレは痛ましげに顔をしかめた。


「まあっ、なんておいたわしい……」


 おとといランドルフに蹴られた下腹部は、内出血で赤黒く変色している。

 が、フェリエナを襲ったのは、恐怖ではなく、羞恥だった。


 夕べ、フェリエナがランドルフに蹴られた跡を見たアドルは、今まで、フェリエナが見たことがないほど、激昂した。


 アドルがその手で地獄に送ったというランドルフに、憎しみのこもった呪詛じゅそを紡ぎ、怒りで群青の瞳をきらめかせるアドルは、ふれれば無傷ではすまない、抜身の剣のようだった。


 しかし、フェリエナが身を強張らせているのに気づくと、


「わたくしの力が及ばなかったばかりに、貴女を辛い目に遭わせてしまい、お詫びのしようもありません」


 と、うって変わって、沈痛に詫び、いたわるようにフェリエナを抱きしめてくれ――。


 身体中に愛しい人の痕跡が残っている気がする。

 熱く、けれども優しい指先。包むような大きな手のひら。優しく、時に激しいくちづけ。

 愛おしげに何度も読んでくれた名前――。


「フェリエナ様?」

 小首を傾げたメレに名前を呼ばれ、フェリエナはあわててかぶりを振った。


「大丈夫。見た目はひどいけれども、痛みはさほどないのよ。数日もすれば、跡も消えるわ」


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