その2 依頼

『これで一安心、そう思っていたのは儂だけだったんだな』桑山氏はロングピースの煙を間断なく吐き続けた。

 一時間もしないうちに、俺の狭い事務所がガス室に様変わりしてしまった。

 俺は煙草を喫わなくなってから随分になるが、別に目の前で煙を浴びせられてもさほど気にはならない。

 しかしながら、それにも限度というものがある。

『窓、開けてもいいですか?』

 俺が言うと、老人は、

『ああ、済まんかったな』といい、ガラスの灰皿にもみ消し、薄茶色のパッケージを懐にしまい、それ以後は一本も喫わなかったが、たった30分も経たないうちに、重い灰皿に吸い殻が山になっていた。

 桑山氏は煙草をしまってしばらく腕を組んで黙っていた。

 コーヒーはすっかり冷めてしまっている。

 やがてカップを取り、一口啜った。

『ただな・・・・精神ってもん、これだけは本当に分かってくれる人間は少ねぇってことが、この時、つまり解散を決めた時に分かった』

 氏はぼそり、と言った体で話し始めた。

『俺には女房がいたんだが、子供はいなかった。だからテメェの血筋ってやつを伝えられる人間がいないことになる。それじゃあまりにも寂しいじゃねぇか。そこでさ、俺の子分の中から、「これは」と思うのを一人選んで養子縁組した。それがこいつだ』

 氏は傍らの信玄袋を開けて、パスケースに入った写真を取り出し、俺の前に置いた。

 そこには、お辞にも人相の良くない、背のひょろっと高く、青白い顔をした男が写っていた。

『名前(なめぇ)を清治っていうんだ。齢は40になったかならねぇかってところだ。俺の子分の中でも一番筋が良くってよ。まあ俺も可愛がっていたんだ。こいつはまだガキの頃二親に死なれてな。天涯孤独って奴なんだ。

不良になりかかっていた頃、俺が拾ってよ、手元で修行をさせたってわけだ。』

『でも、掏摸にしたんでしょう?それじゃ不良と大して違いはないんじゃないすか?』

 俺の言葉に、彼は少し肩を震わせたが、自嘲的な笑みを浮かべた。

『確かにそうだな。あんたの言う通りだよ。今にして思えば、あいつだけには掏摸の技術なんざ教えるべきじゃなかったんだ』

 何でもその男・・・・清治は、掏摸としての腕前は飛びぬけて良かったという。

『目配り、素早さ、物腰・・・・あんな人間に出会ったなぁ、本当に初めてだった。一家の中でも群を抜いていた。当時の儂は「掏摸は天才の生きる世界だ」と本気で信じていたからね。だから奴にそうなってくれることを望んでいた。そして、そうなったんだが・・・・俺が歳をとって、段々変わっていくのに、奴は変わらなかった。

 桑山氏は目をつぶり、再び黙り込んだ。

『一家を解散する時、奴はいったよ。「親父がそんなに腑抜けになったとは知らなかった。見損なった。俺は俺で好きなようにやっていく」ってさ。その後の奴は儂以上の掏摸になった。』

『で、私に何をして欲しいっていうんです?』

 桑山氏は再びロングピースを取り出して口に咥えた。

 今度は何の断りもなく、火を点ける。

『「コンクール」って知ってるか?』

『コンクール?』

『実はな、来週の木曜日、ちょうど正午に銀座の〇×百貨店で開かれるんだ。まあ、いってみれば掏摸の大会みてぇなもんだ。ヒラバ師があっちこっちからやってきて、「お客」の財布を狙うのさ。奴は必ずそこへやってくる。奴だけじゃねぇ。全国からこれはと思う掏摸が集まってきて腕前を披露するってわけさ。』

彼は点けたばかりの煙草をもみ消して、二本目を咥えた。

『あんたも探偵なら聞いたことがあるだろ?この頃は外国からも出稼ぎにやってくる連中がいるってことを』

『暴力掏摸のことですか?』

『そうよ。奴らのは技術なんてもんじゃねぇ。見つかれば刃物は振り回す。カタギを平気で巻き込むなんて屁とも思わねぇ・・・・そんな奴だって来るんだよ』

 桑山氏は口の端から火の点いていない一本がぽろりと落としながら、テーブルに両手をついて深く頭を下げた。

『一生の頼みだ!引き受けてくれ!奴を、清治をそんな奴らとの下らねぇ騒動に巻き込んで台無しにしたくねぇんだ。パクられるならそれでも構わねぇ。どうか命だけは守ってやってくれ。お願いだ』

 まったく、俺のところには妙な願いばかりが舞い込んでくるな・・・・俺は苦笑した。

『いいでしょう。引き受けましょう。その代わり、料金はきっちり貰いますよ。』




 



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