幕間~神野ヒビキ~
一目見た瞬間、心臓を掴まれた。
硬質な銀色のオーラを纏ったその人は、まるで抜身の日本刀のようだった。
「……早乙女アザミです」
見合いに来たとはとても思えない恰好で、彼女はぶっきらぼうに名前だけ告げる。
ヒビキの知らないバンド名がプリントされた派手なTシャツに、ダメージジーンズ。履き込んだスニーカーに、ノーメイク。
立会人はアザミを見るなり、頬を引き攣らせた。
艶やかな黒髪を無造作にひっつめた彼女は、アーモンド型の瞳を鋭く尖らせ、全身で『私に近づくな』と警告していた。
彼女はこれが5度目らしいが、神野ヒビキにとっては初めての見合いだ。
釣り書きもないのに、一度会えばこちらからは断れないと聞かされ、ヒビキはすっかり参っていた。
何度も辞退しようとしたのだが、当時の上司に『一生のお願い』と土下座までされてしまえば、新卒で働き始めたばかりのヒビキは頷くしかない。鬱々とした気持ちで見合いの席までやってきたヒビキだが、相手を見た瞬間、気持ちは変わった。
見合い話を持って来てくれた上役への感謝が、ふつふつと湧いてくる。
ところが、二人きりになった途端、早乙女アザミは「ごめんなさい。私は誰とも結婚するつもりはないんです。ここまで来てもらったのに、申し訳ありません」と頭をさげた。
彼女はそれだけ言うと、踵を返して本当に帰ろうとする。
「待ってください……!」
神野ヒビキはとっさに声をあげていた。
優秀な純血パワードである彼は、当然ながら異性に人気がある。
ヒビキが非常に奥手でなければ、セントラル時代に婚約者が出来ていただろう。だが、そうはならなかった。ガツガツと迫ってくる肉食系女子達から必死に逃げ回った3年間のせいで、女性恐怖症気味にすらなっている。
なのに、目の前の女性へは強烈な渇望しか感じない。
もっと、もっと近づきたい。一秒でも長く、彼女の視界に留まりたい。
一体、どんな人なんだろう。アザミへの好意的な興味が胸いっぱいに広がる。
自分を好きだと言ってくれた子達も、今のヒビキのような気持ちだったのかもしれない。もしそうなら、悪いことをした。深く反省しながら、立ち止まった華奢な背中を見つめる。
彼女のTシャツの背中には『Go to Hell!!』とプリントしてあった。
地獄に落ちてもいいから、これきりにしたくない。
「あなたのこと、もっと知りたいんです。僕とお付き合いしてくれませんか!」
恥も外聞も捨てて、縋り付く。
「私は知りたくない」
アザミは短く答え、そのまま去っていく。ちらと振り返りもしなかった。
こっぴどく振られたというのに、ヒビキはどうしても諦めきれなかった。
迷惑をかけたいわけじゃない。困らせたくもない。でも――。
全く自分のことを知ってもらえないまま、恋愛対象外へと弾かれるのは、嫌だった。
住所は調べない。職場にも電話しない。彼女が少しでも迷惑そうな顔を見せたら、すぐに引く。
ヒビキは自分で決めたルールを徹底して守った。
偶然会えたらいいな。僅かな希望を大事に抱えて、アザミの出退勤時になると官庁ビルの周りをうろうろするヒビキの姿は、周囲の憐みを誘った。
多分、自分ではダメなんだろう。彼女が振り向いてくれる可能性はない。
頭では分かっているのに、アザミへの想いは消えてくれない。ヒビキは己の諦めの悪さに苦しみながら、彼女に焦がれ続けた。
そうして一年が過ぎ、根負けしたアザミが「ご飯食べにいくくらいなら」と折れた時、ヒビキは驚き過ぎてすぐに返事ができなかったくらいだ。
初めて一緒に出掛けた食事の席で、アザミはヒビキに釘を刺した。
「誰とも結婚は出来ません。それはずっと変わらない。あなたのことが嫌いなんじゃない。ただ、無理なの。どうして無理なのか、詮索しないで。私のこと探ったり調べたりしたら、もう二度と会わない」
「うん、分かりました」
「……即答? もっとちゃんと考えた方がいいよ。私と付き合えば、あなたの貴重な時間は無駄になる」
アザミの真摯な警告を、ヒビキは幸福な気持ちで受け止めた。
自分が勝手に好きになったのに、彼女はヒビキの将来まで心配してくれている。優しい人だと思った。不器用な人だとも。
「無駄になるかどうか決めるのは、僕です。あなたと共に過ごせるなら、それがどんな形でも僕はすごく幸せだと思います。少しずつ、お互いのことを知っていけたらいいですね」
「……変な人」
「すみません。ここで、アザミさんのことも幸せにします! とかカッコよく言えたらいいんですけど、それは今の僕が言えることではないので」
ヒビキは正直な気持ちを口にする。
幸せかどうかは、本人の主観によるところが大きい。まだよく知らない相手に向かって、そんな大それたことは保証できない。
アザミは一瞬ポカンとし、それから思いきり噴き出した。
「ほんと、変な人!」
豪快に笑いそうなイメージだったのに、実際のアザミの笑い声は小さかった。
くすくす笑う彼女の声に、うっとり目を瞑って聴き入る。何度でも思い出したくなる声だった。
*******************
柊ハルキからのメッセージが届くまで、神野ヒビキはぼんやり肘をつき、窓辺に置かれたベンジャミンを眺めていた。暇過ぎて、どうにかなりそうだ。
大規模テロ対策委員会が立ち上がってからというもの、ヒビキは無期限で内務省へ出張中ということになっている。いざという時、身軽に動けるようにという上層部の配慮がそこには働いていた。
今まで通り保護省へ出勤してはいるが、ヒビキに割り振られた職務予定は、来月分も未定のままだった。彼がここへ来てから一度もなかったことだ。周囲は真っ白な電子白板(ネットワークボード)を見て、ざわついた。
しかもヒビキの出張先は、日本の伏魔殿と名高い内務省。
どうやら厄介事に巻き込まれたらしいと察した上司や同僚は、今ではヒビキを遠巻きにしている。
「ちょっと、出てきますね。しばらくここには来られないかもしれませんが、よろしくお願いします」
「はいはいっと。気をつけてね、ヒビキくん」
リーズンズの上司のおっとりした声を背に、ヒビキは要人警護課のフロアを飛び出した。
ロビーへ移動するまでの間、妻との馴れ初めを思い出す。
まさか彼が、アザミの【大事なあの子】だったとは。
ヒビキが知っていた頃の彼とは、名前も容姿も違う。
父親から継いだ名を、おそらく彼は途中で変えたのだろう。
柊たちが洗い出した若月の生い立ちは、至って平凡なものだった。父親からの虐待も、ジュニアでの苛めもない。アザミとの接点ももちろん見つからなかった。若月の経歴を書き換えたのは、アザミかもしれない。
ロビーには数箇所のテレポートエリアがある。
アセビが登録した場所は、008。緊急発着エリアだ。滅多に使われない場所の前に立ったヒビキを、行き交う職員がじろじろ見てくる。
周囲の視線に無頓着なヒビキは、期待に満ちた表情でバングルの時間を確認した。
そろそろ、来るかな。
そう思った瞬間、特殊なランプで縁どられたエリアサークルが、着地を知らせる赤色点滅に変わる。
直後、スーツ姿の青年が姿を現す。
ネクタイはだらしなく緩められ、髪もやや乱れているが、それを差し引いてもかなりの好青年だ。
「……ご無沙汰してます」
16年ぶりに見た少年は、すっかり大人になっていた。
「久しぶり! 名前、変わったんだね。顔も全然違うから、分からなかったよ」
「整形はしてないですよ」
「うんうん。人って表情で、かなり印象が変わるもんね」
やせっぽっちで背の低い少年は、とても目つきが悪かった。口はへの字にきつく結ばれていたし、髪は自分で切ったのか、不揃いでガタガタ。
初めてアザミに引き合わされた時、ヒビキはすぐに少年が劣悪な環境に置かれていることを察した。
アザミからはしょっちゅう彼の話を聞いていた。
『開花は遅めだったけど、すごく優秀で優しくて、頼もしい男の子なんだよ』
滅多に人を褒めないアザミが手放しで自慢していた年下の友人は、大人になりセントラルの教職についたようだ。
『私の大事なあの子がね』
アザミの話は、いつもそのフレーズで始まった。
まさか7歳の男児に嫉妬してるとは言えず、20歳のヒビキは余裕のある表情を取り繕い、「ふうん、すごいんだね」と相槌を打ったものだ。
「ここじゃ積もる話はできないから、場所変えようか。といっても、うちで押さえてるホテルか僕のマンションになるけど、どっちがいい?」
「ホテルでお願いします」
きっぱりした口調で即答される。
「分かった。じゃあ、移動しよう」
ヒビキが自由に使えるよう割り振られたホテルは、同区内にある。タクシーを使ってもよかったが、若月は狙われた直後だ。テレポートした方がいいだろう。
「その前に、ちょっと状態を確認させてね」
万が一監視がついているなら、逆に探知できる。完全にクリアの状態にしてから、移動した方がいい。
いつもの要人警護と手順は同じだ。
ヒビキは瞳を伏せ、意識を集中する。時間にすれば十数秒しか経っていない。
若月に異常がないことを確かめ、ホッとしながら目を上げる。あげてすぐ、若月と目が合った。若月はずっとヒビキを見ていたらしい。
「そんなことまで、出来るんですね」
「ん? そんなこと?」
ヒビキがこてんと首を傾げる。
若月は、悔しげに唇を歪めた。
「俺に監視がついてないか確かめたんですよね? ついでに物理プロテクトと
「まあ、それくらいは……」
なんとなく責められてる気がして、ヒビキは不思議になった。
どの警護対象にも行なうことだが、もしかして不快だったのだろうか。謝ろうと口を開きかけ、次の若月の言葉にそのまま固まる。
「トリプルSクラスのトップパワードですもんね。……アザミさんだって、守れたんじゃないですか」
若月の瞳は、悔恨とやり場のない怒りで揺れていた。
ああ、この子も――。
この子も、アザミさんが大好きで、大切だったんだ。
今更ながら、ヒビキは気づいた。
『あんたがついていながら!』
『ああ、くそ。何も返せなかった。何も、してあげられなかった』
若月からにじみ出る表層思念に、痛ましさが込み上げる。
アザミが死んでから5年。今でも若月は、ヒビキと自分を責めているのだ。
一言も返さないヒビキを見て、若月はハッと表情を改めた。
言うつもりのなかった言葉なのだと、その顔を見ただけで分かる。
「すみません。聞かなかったことにして下さい。所詮、部外者の戯言です」
自嘲混じりの謝罪をしてきた若月の背中を、ヒビキは軽く叩いた。
「恨み言なら、アザミさんの代わりに僕が聞くね。君は部外者じゃない。アザミさんのもう一人の『大事な子』だから」
「……変な人ですね」
若月が泣き笑いのような表情を浮べる。
アザミと同じ抑揚で同じ台詞を口にした若月を、ヒビキは懐かしい気持ちで眺めた。
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