第42話 白か黒か
面談室に飛び込んだ私達が見たのは、床に伏した若月先生だった。
椅子ごと倒れたんだろう、隣にはひっくり返ったパイプ椅子が転がっている。
「まずい……! アセビ、手伝ってくれ!」
「うん!」
ハルキくんは先生に駆け寄ると、ゆっくりと身体を仰向けにし外傷を調べ始めた。先生の顔色は真っ青で、小刻みに痙攣してる。ジュニア時代の必須科目だった応急処置の方法が一気に浮かんできた。まずは呼吸の確保と意識レベルの確認だ。
私が動くより早く、ハルキくんが先生の衣服を緩め、胸に耳を当てる。
「頭部への打撲跡や傷はない。自発呼吸は出来ているが浅いな。意識レベルはⅢ度。口が濡れてる……」
テーブルを振り返ると、蓋の空いたペットボトルが目に入る。
「まだそんなに時間経ってない。胃洗浄系で治療するやつならヒーリングでいけるかも!」
「頼む」
先生のすぐ傍に両膝をつき、お腹の上に両手を当てる。
先生の中に入った異物を消し去り、傷ついた臓器や血液を癒すイメージで力を流し込んだ。両手が熱くなり、手を置いた部分から熱が広がっていく。
先生の呼吸が正常な速度に戻るまで、5分もかからなかった。顔色もすっかり戻ってるし、痙攣もなし。神経毒じゃなかったみたい。良かった~!
「先生! 先生、分かりますか?」
十分にヒーリングの効果は出たと判断して、先生の頬を軽く叩く。
今度はすぐに反応があった。
「じんの、くん? ――あれ、ここって」
先生の瞳が開き、ゆっくり焦点が合っていく。
まだ軽く記憶が混乱しているみたい。深い睡眠中に無理やり起こされたみたいな戸惑いが伝わってくる。油断すると、また寝ていきそう。それだけ体が休息を求めてるってことなんだろうけど、今は困る。
うーん。これ、どうしたらいいのかな。
……そうだ!
私は先生のバングルに触れ、試しにフレームを『活動』から『起床』へと変えてみた。
先生は目を大きく見開き、ばね仕掛けの人形みたいに飛び起きた。
あ、他人がこれやると効果あり過ぎるんだね、反省……。
「――どういうことか、説明してくれるか?」
ようやくいつもの調子を取り戻した先生が、私とハルキくんをまっすぐに見つめてくる。
ここからは、ハルキくんのターンだ。
「もちろんです。ですが、その前に先生の話を聞かせて下さい。このペットボトルはどこで?」
「これは、職員用の配布分だ。水分補給は大切だから、といつも旭(あさひ)先生が」
「旭(あさひ)シノ。保健医の職員ですね?」
「ああ。……補習の時はいつも配られているんだ。言っとくが、旭先生はただ配っただけだぞ? 彼女が配る前に、すでに毒物が混入していたのかもしれない」
「今日はいつ、これを受け取ったのですか?」
「――面談室へくる少し前だ」
「アセビが倒れた時には駆けつけなかった彼女が、その後、あなたにこれを渡した。その時、旭先生はなんと?」
矢継ぎ早に繰り出されるハルキくんの質問に、若月先生の肩が次第に下がっていく。
「……早めに水分を補給するように、と」
「なるほど。そうして勧められたドリンクは毒入りで、たまたま襲撃者を目撃したあなたに当たった、というわけですね。偶然にしては出来すぎている」
ハルキくんはあっさり断じると、私に視線を流した。同時に短いテレパスを受け取る。
私は急いで個人端末を取り出し、御坂くんに向かってメッセージを送った。
【旭はクロ。気をつけろ】
文字を打つ手が微かに震える。保健室のあの先生が、RTZ側……?
――『あれ? この教室でも補習があったのね。ごめんなさい、回るの忘れてた!』
穏やかであたたかい微笑みと声が、脳裡に蘇る。
あの時貰った飲み物にも、何か入ってたのかな。どうしてあんな優しい先生が?
心がグラグラ揺れて、現実感が乏しくなる。
それは若月先生も同じみたいで、先生は大きな溜息をつき、「何がどうなってるんだ」と呟いた。
「腹の探り合いをしてる場合じゃなくなった。単刀直入に聞こう」
ハルキくんの雰囲気がガラリと変わる。
「あなたはアセビについて、どこまで知っている? ホテル火災事件との関係は? あなたが隠していることを、全て話してもらいたい」
25歳の元のハルキくんがそこにはいた。15歳の姿に、大人の彼の姿がだぶる。
若月先生は瞳を細め、ハルキをひたと見据えた。
無言の時間はどれだけも続かなかった。先生の顔がみるみるうちに強張っていく。
「君は一体、何者だ」
「それは後で分かる。俺の心を覗いても無駄だと分かったな? 時間がないと言った筈だ」
ハルキくんのにべもない返事に、先生は迷ったみたいだった。
今度は私に視線を向けてくる。彼は私を純粋に心配している。それが伝わってくる表層思念と眼差しに、不意を突かれた。
私が動揺した隙を狙って、先生はテレパスを送ってくる。
【大丈夫か? 彼に脅されているのなら、助けになる。俺は味方だ。アザミさんには借りがある。このまま君を放ってはおけない】
突然出てきた母の名前に、私は息を呑んだ。
私と先生がテレパスで繋がっていることに気づいたハルキくんが、苛立だしげに両手を叩く。
パン、と乾いた音がしたと思ったら、先生のテレパスが遮断された。
あ、これ襲撃者も使ってた技だ。どうやったら他人のテレパスに介入して通信を遮断出来るのか、今度ハルキくんにやり方教えて貰わないと。
「アセビを懐柔しようとするな。彼女の人の良さにつけこむつもりなら、話は終わりだ」
絶対零度の空気を漂わせたハルキくんが警告すると、先生も負けじと言い返す。
「神野くんの人の良さにつけ込んでいるのは、俺じゃない。もしかして、自分のことを言ってる?」
2人の間に見えない火花が散った。
だめだ、このままじゃ埒が明かない。
もし、先生が本当に母さんの知り合いで、本気で私を助けたいと思ってるのなら、味方になってくれるかもしれない。でももし、私を騙そうとして母さんの名前を出したのなら?
どちらか判別するには、あの手を使うしかない気がする。
「先生は、私の母に借りがあるんだって。だから私を放っておけないんだって言ってた」
私が言うと、ハルキくんはホッとしたように目元を和らげた。私からテレパシーの内容を話してくれて嬉しい。彼の素直な気持ちが伝わってくる。
一方、先生は、何故か傷ついたような表情を浮べた。
どうしてそんな顔、するんだろう。
私のパートナーはハルキくんだ。先生じゃない。
『先生の深層心理を探ってもいい? 母さんのこと、本当がどうか知りたい』
ハルキくんにテレパスで尋ねる。ハルキくんは一瞬ためらった後、了承の返事を送ってきた。
『この際、手段は選んでいられないな。だが、深追いは厳禁だ。ここで若月を壊すわけにはいかない』
私だって、先生を廃人にしたいとは思ってない。でも今は、一秒でも早く先生がどちらサイドの人間なのか判別したかった。
こくりと頷き、若月先生に視線を戻す。
「先生が本当に私の味方だって言うなら、教えて下さい。先生は、どこまで知ってるんですか?」
この質問が最後のチャンスだったのに、先生は頑なに口を噤んだままだ。こちらの事情を明かすまで、先生はきっと何も教えてくれない。
「教えてくれないなら、覗くまでです」
一応宣言してから立ち上がる。
先生の隣に瞬間移動して彼の瞳を覗き込めば、大きく見開かれたそこに私の顔が映った。
その程度じゃ、ダメだよ先生。
先生は、セントラルの教職試験にパスできるくらい優秀なミックスだ。だけど、精神特化型のパワードじゃない先生の張ったプロテクトはとても薄く、私でも剥すことが出来そうだった。これ、マホが本気だしたら秒処理だろうな。
心の奥を覗かせまいと必死になって庇う腕を、優しく撫でる。壊さないように、そっとそうっと。
いい子だから、そこをどいて。
本人の意志を無視した精神知覚を受ければ、耐えがたい生理的嫌悪感を味わう、と授業では習った。
本当にそうみたいで、先生は顔を歪めて身を捻じる。堪らずテーブルに突っ伏した先生は、テーブルに強く爪を立てた。
「うっ……く! やめ……ろ……っ!」
「ちょっと見るだけです。すぐ終わりますから」
呼吸を荒げる先生をあやしながら、探索の触手をプロテクトに空いた隙間から潜り込ませる。
ずぶずぶと確かに沈んでいく手ごたえを感じるのと同時に、沢山の記憶の破片が飛んできた。
ジュニア時代の先生は、一人ぼっちだった。
狭い部屋の中で、机に向かって一生懸命勉強する先生の小さな背中が見える。
学校では『出来損ない』『親なし』とからかわれ、残酷な悪戯をしかけられる。
外では平然と振る舞っていたけど、先生は一人になると、くたびれたクマのぬいぐるみを抱き締め、しくしく泣いた。
『みんな死ねばいいんだ……くそっ。しねしねしね』
『つよくなるって約束したのに……ああ、いやだ。弱い自分がだいきっらいだ』
そんな言葉が思念世界を埋め尽くす。
見てしまった私の胸が痛くなる程、幼い先生は傷ついていた。孤独と憎しみと、自己嫌悪に押し潰されそうになっていた。
このまま続けていいんだろうか。私は、取り返しのつかないことをしてるんじゃないだろうか。
一瞬迷ったその時、泣いていた先生が顔をあげる。
先生の昏い瞳が、私を見るなりパッと輝いた。
『アザミさん!』
声変わりのしてない可愛い声が、母の名を呼ぶ。
途端、思念世界の場面が変わった。
どこか分からない駅のホームに、私は立っていた。
若月少年は待合椅子にポツンと座り、目の前の線路を睨み付けている。
『ねえ、僕。こんなところに一人でいたら、危ないよ。もしかして、家出?』
灰色の雑踏の中、その女性だけが色づいていた。
明るい声と共に、優しく丸められた瞳が若月少年の顔を覗く。
母さんだ! 私の記憶の中よりうんと若いけど、間違いない。一気に目頭が熱くなる。先生の思念世界の中とは思えないほど、母の姿はリアルだった。
胸元を強く押さえ、目の前の場面に見入る。
『とりあえず、なんか食べにいこ! おねえさん、美味しいピザ屋さん知ってるんだけど、僕はピザ好き?』
母さんの問いかけに、若月先生がおそるおそる頷く。
母さんは、先生の小さな手を握り、屈んでいた膝を伸ばした。
先生と手を繋いだまま、くるりとこちらを振り返る。
――あーちゃん、だめだよ。
母さんは私に向かって、メッと顔をしかめた。
――こんな風に力を使っちゃダメ。誰かの心を知るのに、近道なんてないんだよ。あっても、使っちゃだめだよ。
母さんの嗜める声に、頬がぶわりと熱くなる。
若月先生は母さんにぴったりくっつき、怯えた眼差しで私を窺っていた。
自分のしてることを2人がかりで責められて、カッとなった。もともとあった小さな罪悪感が大きく膨れ上がる。
「だって、しょうがないじゃん! 時間がないんだから!」
地団駄を踏みながら、私は言い返した。
「急がないと、間に合わない。沢山の人が死ぬんだよ!? 何の力も持ってない人が、一方的に殺されるんだよ!? そんなの、絶対止めなきゃって思うじゃん。大勢の人が助かるなら――」
「僕の心が死んでもいい?」
若月先生があどけない声で、私の言葉の続きを当てる。
先生は悲しそうだった。ものすごく、悲しそうだった。
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