ロマンス66%

 我に返って唇を離すと、あたりまえだが彼女の顔が目の前にあった。

 きょとんとした、澄んだ瞳。

「わっ、ごっ、ごめっ」

 慌てて飛びのく。心臓が外に聞こえそうなほどうるさく鼓動している。

 言うまでもなく、人生で初めてのキスだった。本当に、自分に自分がいちばん、びっくりしていた。

 唇が触れ合った証拠に、自分の唇に彼女のリップクリームのようなものが付着しているのがわかった。かっと耳が熱くなる。

「ほんとにごめん、吉橋さん……」

 あれ? でも。いいよ、と彼女は答えてくれたのだ。

 俺たちは、恋人同士ってやつになったのか――? 衝動的に突っ走ったのに、そんな、夢みたいなこと。

 全身に分泌されたアドレナリンが全身を駆けめぐるのを感じた。

「なんで謝るの?」

 吉橋よしはし一花いちかは、俺の好きな澄んだ声で言った。小首を傾げたので、豊かなポニーテールが揺れた。

 突然唇を奪われたのに、やけに落ち着いている。やっぱりなんだか、一学期までとはオーラが違う。

「いや、いきなりキ……こんなこと、したから……」

「平気だよ。ちょっとびっくりしたけど」

 吉橋は涼しい顔で笑う。その束ねた長い髪から、俺の知らない香りがほのかに漂っている。

 あれ。かすかな違和感を感じた。

 美化委員で一緒に活動していた頃から、彼女の髪からは花のような香りがしていたはずだ。今は別の香りがする。シトラス系というのか、さわやかでちょっとスパイシーな香り。

 香水、変えたのかな。

「とりあえず、荷物取りに教室戻っていい?」

 吉橋はそう言いつつ、階段の下から出た。俺も慌てて続く。


 廊下を並んで歩いた。みんなが俺たちを見ているような気がする。

 え、吉橋一花があんな陰キャと? そんなふうに思われていないだろうか。彼女の名誉は大丈夫だろうか。

 人生最高に幸せなひとときのはずなのに、罪悪感で冷や汗が出た。自己肯定感の低い人間がらしくないことをすると、こうなるのだ。

「ね、あたしのどこをいいと思ってくれたの?」

 前を向いたまま吉橋はよく通る声で言った。

「え……、そりゃ吉橋さん、かわいいし……」

 とっさに訊かれて容姿を褒めることしかできない自分の薄っぺらさを呪った。

 他にも好きなところ、いっぱいあるのに。飾らないところ。会話のテンポが心地いいところ。好きな英語にとことん向き合っているところ。俺と同じくらい、本をたくさん読んでいるところ……。

「ふうん」

 吉橋は鼻を鳴らした。

「あ、いや、もちろん他にもいろいろ……」

「っていうか、あれだ」

 吉橋が急に歩みを止めて勢いよく俺を振り返ったので、膝上丈のスカートがひるがえった。白い太ももに、思わず目を奪われてしまう。

 屋良の台詞がまた蘇る。セカイ、カワルヨ――。

「きみ、名前なんていうの?」

 …………え?

 俺はきょを衝かれて吉橋を見つめた。

 え、え、だって、そりゃクラスは違うし今は接点ないけど、1年間一緒に委員をやったじゃないか。そのかわいい声で何度も「佐瀬させくん」って呼んでくれたじゃないか。

「わ、忘れたの……?」

「忘れたも何も、初対面じゃんか」

 信じられない台詞を口にして、吉橋はからからと笑った。俺はその場に凍りつく。

 なんなんだ。これはやっぱり夢なのか。だとしたら、どこからだ?


 そのとき、決定的に衝撃的なものを俺は見てしまった。

「あれ、ここにいたの」

 吉橋の背後から現れたもうひとりの吉橋が、吉橋の声で吉橋に呼びかけてきたのだ。

 解き放った長い髪に、膝丈のスカート。俺のよく知るビジュアルの吉橋だ。

 ――な、な、なななな……。

「一花!」

 一緒に歩いていた方の吉橋が、自分の名前を呼んだ。

 も、もしかして、いやもしかしなくても、これは……まさか……。

青葉あおば、なんで佐瀬くんと……?」

 新しく現れた方の吉橋が、俺と吉橋を不思議そうに見比べる。

 アオバ。

 もしや、俺が告白したのは――。

「聞いて! あのね、あたし今このひとに告白されちゃった」

 アオバと呼ばれた方の吉橋が、満面の笑みで報告する。もうひとりの吉橋は、こわばった表情で俺を見た。

 目の前がホワイトアウトするのを感じた。

「あ、双子ちゃんそろってるー!」

「こうして見るとやっぱり、そっくりだねえ」

 J組のクラスから出てきた女子数人が、ふたりの吉橋に駆け寄って言った。

 俺はその場に崩れ落ちそうになった。

 ふ、双子………。


 小一時間後、俺はふたりの吉橋と一緒に学校の近くのマックでダブルチーズバーガーセットを食べていた。

「いやー、駅前とかなんもなくてびびったけど、とりあえずマックがあってよかったわ」

 青葉が照り焼きバーガーを齧りながら言う。

「なんもないったって、それなりにあるでしょ。なんでも東京を基準にするのはどうなのよ」

 その隣りで、一花がポテトを咀嚼しながら抗議する。

 そう、俺が告白したのは、一花の双子の妹の青葉だった。

 家庭の事情で父親と一緒に3年ほど東京で暮らしていたが、またもや家庭の事情により家族4人で暮らすことになり、二学期の初日である今日からこの私立星南せいなん高校に転入してきたという。

 別居している双子の妹がいるなんて、聞いたことなかった。もし知っていれば、あんな過ちを犯さないで済んだだろうか。

 ――過ち。キスを奪った相手のことをそんなふうに思うのは、あまりにも失礼というものだ。

 それに、いつもと違う雰囲気の吉橋を見て行動を起こしたのもまた、事実なのだった。

 ファーストキスの相手を、ちらりと見る。Lサイズのポテトをあらかた食べ終えようとしている。美少女なのによく食う子だ。その唇につい、目が奪われてしまう。

 じーん。じーん。誰かのスマホが振動し始めた。ふたりが同じ仕草で鞄を探る。

 やっぱり双子だな、と感心させられる。長いこと離れて暮らしていたというのに、挙動がそっくりなのだ。

「あ、お父さん」

 鳴ったのは青葉のスマホだった。相手は父親らしい。

「うん、うん、今ね、マックでお昼。一花もいるよー」

 青葉は快活に話している。パパっ子なのだろうなと思わせる口調だ。声に甘やかさがふくまれている。

 俺と一花の間に気まずい沈黙が横たわる。俺はうつむいてアイスカフェオレをすすった。

 それにしてもやはり、美人双子というのは目立つ。自分ひとりでいるときには向けられないであろうたぐいの視線をちらちらと感じる。トレイを持った通りすがりの客が、「双子?」「一卵性?」などとささやきかわしている。

「佐瀬くんは」

 一花に突然名前を呼ばれ、俺はびくりとした。

 ああ、校外で一緒に過ごすなんて初めてのことなのに、なんて気まずい状況なんだろう……。

「なんで、いきなり青葉と付き合うの?」

 一花は感情の読み取れない顔でじっと俺を見た。

「あ、や……えっと」

 心臓が再び音をたて始める。正直に言おうか。きみとまちがえて告白しましたって。

「ああ、それでねお父さん、あたしいきなり彼氏ができちゃった」

 青葉の声が響きわたり、思考が中断される。

 一花が再び俺を見る。

 いや、言えるかよ。きみを好きなのに、うっかりきみの妹の彼氏になってしまっただなんて――。

「あっはは、平気だよお。何心配してんのそんな今更、処女じゃあるまいし」

 青葉の言葉に、今度こそ俺は硬直した。

 処女じゃ、ないんだ……。

 一花が大げさに溜息をつくのが聞こえた。

 俺は本当に、なんて子に告白してしまったんだろう。

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