俺と双子の未完成ロマンス

砂村かいり

ロマンス33%

 あの日「彼女」に告白したことがまちがいだったかどうかなんて、俺にはもうわからないんだ――。


 ✳︎


 高2の夏休みが明けた。

 毎年のことながらこの時期、みんなちょっとずつ印象が変わった気がする。

 真っ黒に日焼けしたやつ。ばっさり髪を切ったやつ。そして、彼氏や彼女ができたやつ。

 家族で沖縄へ行ったやつがスマホの中の青い海を見せびらかし、ドバイへ行ったというやつは土産のチョコをバラまいている。

 俺は何も変わっていないし、市営プールと県立図書館くらいにしか出かけていない。

 強いて言えば、片思いをこじらせてノートに詩を書き始めた――吉橋よしはし一花いちかのことを想いながら。

 ……だいぶやばいかもしれない。いろんな意味で。


「うーっす」

 笑いさざめくクラスメイトたちの声を遠い海鳴りのように聴きながら文庫本を広げていると、屋良やらが背中に体当たりしてきた。

「いってえな」

「なーんで暗いの佐瀬させ、夏休み楽しいことなかったのお?」

 水泳部のエースである屋良は、夏休みも練習漬けだったのだろう、もともと浅黒い肌の日焼けがさらに進み、筋肉もがっつり強化されている。

 普通に過ごしていればきっといわゆる陰キャというやつに分類されてしまうであろう非モテの俺がクラスで浮かずにいられるのは、底抜けに明るくて目立つ屋良とつるんでいるからであるのはほぼまちがいないと思われる。

「ねーよ、なんも楽しいことなんて」

「なに世捨て人みたいなこと言ってんのよ」

 屋良は俺の首に後ろから腕を回したまま、がははと笑った。

 やだあ、屋良くんうるさあい。そう言いながら屋良に秋波を送る畑山はたやまは、やつに気があることを俺は知っている。


 いつものように軽口をたたく屋良の雰囲気がどことなく違っていることに、俺は気づいた。うまく言えないが、若さゆえの粗雑さの中に妙に落ち着いた余裕がある、気がする。

 おまけに、制服のYシャツの中の日焼けした胸に、シルバーのネックレスがきらりと光っているではないか。

「……屋良、も、もしかしておまえ、……最近何かあった?」

 嫌な予感に襲われながらこわごわたずねると、

「よくぞいてくださいましたっ」

 屋良はにんまり笑って俺の耳に手をあて、直接ささやき声を吹きこんできた。

「脱童貞しちゃった、俺」

「なっ……!」

 教室のざわめきが遠ざかる。俺は瞠目どうもくして屋良の大柄な体を上から下まで眺め渡した。

 う……嘘だ、嘘だと言ってくれ。


 たしかに屋良はモテる。いささかアクの強い顔立ちではあるが、こういう系統が好きな女にはたまらないだろう。現に今この瞬間もこちらをちらちら窺っている畑山なんかがそうだ。

 なんと言ってもスポーツ部だ。文芸部でせこせこ文字を綴っているような俺とは本来、違う世界の生き物だ。

 それでも友情に熱い屋良は、非モテの俺に合わせて「ヤラない! サセない! 童貞同盟」を結んでくれたのだ。今年5月のことだ。

「おま……っ、協定はどうしたんだよっ」

 受験が終わるまでは煩悩に身を任せない方がよかろうというまじめな目的もあったのに。

 屋良は余裕の笑みを浮かべ、小さな椅子に無理やり半ケツしてきた。まったく小憎らしい。

「すまん、離脱。まじで勘弁な」

「ちっとも謝ってる顔じゃねーだろ。いつだよ、誰とだよっ」

 これじゃまるで、俺は浮気した夫を問い詰める女房だ。

「先週。マネージャー。言うなよ」

 うっ。俺は、水泳部の女子マネージャーの顔を思いだした。まじかよ、あんな美人と。俺はもう、屋良を今までと同じ目で見られない。

 たしかに夏休み前、なんだか最近ちょっといい感じなんだよな、と漏らしてはいたけれど、ひと月で一気にそこまで進展するとは。

「ほら、ちょうど俺誕生日だったからさ、これもらっちったんだ。おそろいっすよ、カノジョと」

 Yシャツの胸元をつまみ上げ、ネックレスを覗かせながら屋良は誇らしげに言う。

 カノジョ。親友の口から発せられたその言葉に俺は震撼する。

「いやー、世界変わるよ、佐瀬くん」

 予鈴が教室に鳴り響く。しかし、友の声はチャイムの音よりも大きく俺の内耳に響き渡った。

 セカイ、カワルヨ。


 始業式の日は午前で終わる。

 それぞれの家や部活へ向かうやつらがひしめく廊下を、俺はゆらゆらと英語科クラスへ向かって歩いた。

 どうしても吉橋一花の顔が見たかった。会いたくてたまらなかった。


 吉橋とは去年、美化委員で一緒だった。

 美化という名前の響きはいいが、校舎まわりやトイレの掃除をさせられる汚れ仕事ばかりの委員会だ。クラスで委員会決めをした日に風邪で休んでしまい、ハズレを押しつけられたのだ。

 でも、結果から言えばそれはハズレではなかった。吉橋一花に出会えたのだから。

 3年生の委員長により初日に適当に組まされたペアで、俺と吉橋は軍手をはめてポリ袋を持ち、一緒にグラウンド裏のごみ拾いに行くことになった。

 彼女は各学年に1クラスずつある英語科の生徒だった。J組。普通科クラスの俺たちからすればちょっと敷居の高い、まぶしい存在だった。

 普段何の接点もない彼女との間に共通の話題があるはずもなく、俺たちは適度に距離を置き、黙ってごみ拾いを続けた。

 気詰まりな沈黙を破ったのは、彼女だった。

「佐瀬くんって、何か部活入ってる?」

 その澄んだ声の響きと、遠慮がちながら親しみのこもった微笑みを、俺は生涯忘れないんじゃないかと思う。春の陽射しを受けてさらさらと肩にこぼれ落ちる髪のきらめきも。

「え、えっと、あ、一応、文芸部に」

 俺はどもりながら答えた。「一応」ってなんだ、と自分で呆れながら。

「えっ、そうなの? 2年に添田そえだっていない?」

「添田先輩?」

「そう。それ、あたしの従兄いとこ

「まじで?」

 尊敬している先輩の名前が出て、俺の声は思わず弾んだ。

「吉橋さんは、何部なの?」

「……ベタだけど、英語部」

「英語科で、さらに英語部!?」

「いいでしょ、結構おもしろい活動するんだよ」

「何やるの、英語部って」

「普段は洋画鑑賞とか洋書の独自翻訳とかだけど、英語の弁論大会とかあるし、文化祭では英語劇やるよ」

 気づけば俺たちの間にあった見えない壁は取り払われていた。驚くほどにするすると会話がつながっていった。

 その日から1年間、俺は週に1度の委員会の日が楽しみで仕方なかった。吉橋と俺は、ごく自然にペアで持ち場を担当するようになった。

 吉橋は整った顔立ちとすんなりしたスタイルを持ち、清楚な雰囲気をまとっていた。女子と話すのに気後れするはずの俺が、緊張はしつつも楽しんで接することのできる唯一の相手だった。

 近づくと、その名の通りふんわりと花のような香りがした。俺の好きなサリンジャーやヘミングウェイを彼女もよく読んでいると聞いたときは興奮した。

 これはきっと――恋ってやつだ。

 痛烈にそう感じたのは、最後の委員会の日だ。また何の接点もなくなってしまう。そう思うときりきりするほどの焦りが俺の胸を焦がした。

「今日でおしまいだね」

 その日の持ち場だった花壇の草むしりをしながら吉橋がぽつりとそうつぶやいたとき、俺の口から何か熱い塊のようなものが勢いよく出かかった。

 でも、それは言葉になることなく消えていった。

 彼女のことを好きなんだと意識した途端、俺は言葉を交わす以前の頃のように萎縮してしまったのだ。

 それ以降、俺たちはごくたまに廊下ですれ違うだけの関係に戻ってしまった。

 今年度も美化委員で一緒になれればと願い俺は立候補したが、J組からは男子が選出されていた。


 屋良の脱童貞の話を聞いてそく吉橋とやりたくなったとか、そんなんじゃない。やつの初体験に刺激を受けたのは事実だが、いくらなんでもそんな短絡思考じゃない。

 でもせめて――せめて、温め続けたこの気持ちくらいは伝えてみてもいいんじゃないか。

 ふられたとしても、吉橋は俺を気まずくさせるような嫌な態度をとるような子じゃない。

 元来の内向的な性格をこじらせてしまったがゆえの無味乾燥な日々に彩りができる可能性だって、ゼロではないじゃないか…。

 自分に対する鼓舞や言いわけの言葉を脳内にぐるぐるめぐらせながら、気づけば足は英語科クラスの前にたどりついていた。

 廊下の窓枠にもたれて、吉橋は立っていた。クラスメイトたちに囲まれ、快活な笑顔をふりまきながら。

 一瞬息を飲むほど、彼女はイメージチェンジしていた。

 いつも下ろしていた長い髪の毛を、ポニーテールに結い上げている。

 膝丈だったはずのスカートは太ももの半ばまでの短さになっており、その形のいい唇は何かつやつやしたものが塗りつけられてさくらんぼ色に光っていた。

 何より、どちらかといえばおとなしいキャラのはずの彼女が、悠然とした構えで壁に寄りかかり大きな笑い声を立てている。雰囲気が一気に垢抜けた感じだ。

 この夏休み、屋良と同じように彼女の身にも、何か大きな変化があったとしか思えない。何が……。


 ――気づけば、体が勝手に動いていた。

 俺は大股で彼女に歩み寄り、その細い腕をつかんだ。

「吉橋さん、ちょっと来て」

 彼女や友人たちの驚きの表情を確認する余裕もなく、俺はそのまま彼女を引きずるようにずんずん歩いた。

「え、ちょ、ちょっと」

 当惑する彼女の声。窓から差しこむ夏の光。指先に伝わる彼女の腕の、柔らかな質感。

 自分の大胆さに、自分がいちばん驚いていた。衝動が俺を突き動かしていた。

 西階段の踊り場の真下。

 そこが有名な告白スポットであることは俺でも知っていた。

 俺は吉橋を引きずりこむようにその暗がりに入りこむと、爆発しそうな心臓を抑えて顔を上げ、彼女を正面から見た。

 ……うっ、かわいい。

 あらためて好きな顔だな。そう思いながら、俺は震える声で想いを口にした。

「俺と付き合って、吉橋さん」

 ふられてもいい。

 彼氏ができたのなら、それでもいい。

 片想いの供養になるのなら、それで充分――


「いいよ」


 吉橋は、あっさり言った。

 一瞬、時が止まったかと思った。

 我が身に起こったことが信じられなかった。

 彼女の言葉の意味が脳に降ってきて何かを思考させる前に、俺は彼女に一歩近づき、その華奢な体を壁に押しつけてキスをした。

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