クリトゥルヌスのぶどう酒
湫川 仰角
クリトゥルヌスのぶどう酒
そこは楽園に違いなかった。
未開の荒野のさらに奥、人の手など入らない荒れ果てた山々に抱かれて、そこはあった。
集落と呼ぶには程遠く、ただ人の集まりと言った方がまだ近い。主たる生業もなく、出稼ぎなど存在すらせぬほど世間から隔絶されていた。
端的に言って、そこは貧しさしか生まれ得ない環境だった。
けれども彼らは豊かだった。いや、より正確に言うならば、彼らは幸せであった。
簡素な造りの小屋の中、敷き詰められた藁の上に私は横になっていた。
「ずいぶん良くなりましたね、先生」
そう言いながら、一人の若い男が小屋に入ってきた。
「何度も言うが、先生はやめてくれ。私はただの地理調査員だ」
「やっぱり学者先生じゃないか」
「だから、言っているだろう。私は地形を調べてまとめるだけで、研究する学者は別にいるのだと」
「よくわからないことを調べている人たちは、俺らにとっちゃみな先生さ」
そう言って笑う若者の歯は黒い。着ている服もボロ切れ同然だった。
「まぁとにかく、ここの人たちには感謝しているよ」
足に巻かれた包帯を交換されながら、このやりとりも幾度繰り返しただろうかと思う。
「なぁ君。さっき言っていた通り、おかげで随分良くなってきた。復帰も兼ねてそろそろ出歩きたい頃だが、この辺りを案内してくれないだろうか?」
「あー…そのことなんですがね。今は少し、時期が悪いというか」
「時期?」
若者が言い淀んでいると、外から一人、初老の男が入ってきた。男は比較的小綺麗な身だしなみで、後退した前髪を後ろに撫で付けていた。
先生、と若者が声をかけると、初老の男は頷き「後は私が」とだけ言った。
「それじゃあ地理の先生、食事ここに置いておきますから」
「あぁ、ありがとう」
給された木皿には、少量の木の実とぶどう酒が入っていた。
若者が小屋を出ると、男は私の傍に座った。
「あなたもここでよくわからないことを調べているのですか」
「いや、私はここの長を務めている」
男はニコリともせず、愛想なく続けた。
「傷も癒えた頃だろう。準備を整え次第、村を出て行って欲しい」
「急な話をされますね」
「まもなく冬季だ。雪が降ると山は閉ざされ越えられなくなる。その前に出て行くことだ。先ほどの若者をつけてもいい」
「ここで冬を越させてもらうことは難しいですかね」
「必要な荷物はこちらでまとめておく」
取りつく島もない物言いだったが、あまり事を荒立てたくはなかった。
「……わかりました。ただ、心配なことが」
「何かね」
「ここに住む人たちは、冬を越せるのでしょうか」
「……問題ない」
「しかし、見た所十分な蓄えがあるわけでもなく、人々の生活も質素極まる。とてもじゃないが冬支度をしているようには見えない」
「問題ない、と言った」
「それに」
「失礼だが、あなたは自分の心配をしたほうがいい。ここまで自力で来たというからわかると思うが、その足で山越えするには気力が必要だ」
「やっぱりわかっているじゃないですか」
「そのために村の者を一人出すのだ。申し訳ないが、これ以上我々のことに首をつっこまないでもらいたい」
「もし必要なら、救援を呼ぶこともできる」
「ダメだ!」
突然の大声に、私は男の顔を見た。よく見ると、男の口の周りには丸く囲むように爛れた痕があった。
「今日にでも出て行ってくれ。誰かに手伝わせる」
男は話を切り上げ、
「間もなく収穫祭がある。クリトゥルヌス様の御心に、心配は不要だ」
最後にそう呟いて、小屋を出て行った。
収穫祭? クリトゥルヌス? これから本格的な冬だというのに、一体何の収穫を祝うというのだろう。
手元には、食事に差し出された木の実と真っ赤なぶどう酒。
「またこれか」
ここで看病されて以来、毎食これだけが出されていた。だからこそ蓄えが乏しいと考えていたのだが、もしかしたら私だけがこの食事なのかもしれない。
木の実をかじり、ぶどう酒を飲む。
それでも私が不満を言わなかったのは、ぶどう酒を飲み干す頃には、不思議と満足感を覚えるからだった。
木の実は近隣の山々で採れたものだろう。手入れはされていない山に見えたが、どこかに収穫する場所があるのかも知れない。
だが、このぶどう酒についてはそれでは説明がつかない。部外者にすら毎食提供できる程の量を確保するには、十分な収穫量と然るべき設備が必要だ。
食料に優先してぶどう酒を作ることの意味が、私にはわからなかった。
何よりも、このぶどう酒はとりわけ味が良い。ここに住む全員分の食料を賄う金など容易く生み出せる、これだけで一つの産業とできるくらいには。
その後程なくして、私の荷物をまとめた若者が戻って来た。
「急がせちゃって悪いね先生」
黒い歯を見せ、彼は笑った。
その日のうちに、私は彼と出発した。
怪我から回復したばかりの私にとって、山越えは辛く厳しいものとなったが、献身的な補助のおかげで明日には山を越えられる見込みができた。
夜には共に焚き火を囲い、私はいくつかの質問をした。
君たちに冬を越すだけの蓄えはあるのか、あのぶどう酒はどこで作っているのか、間も無く始まる収穫祭とやらにそのぶどう酒は関係しているのか、クリトゥルヌスとは誰のことなのか。
だが、いずれの質問も彼ははぐらかすばかりで、明確な答えを得ることはできなかった。
収穫祭について唯一わかったのは、あの初老の男−ミトラという名の長−が決まった時期に始め出した、ということだけだった。
翌朝、私と彼は崖から転落し、彼は頭を打って事切れた。彼は最期まで、私のことを気にかけた。
一夜を越え、再度夜を迎えて村まで戻ったとき、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
月明かりに照らされながら、大人たちは樽一杯のぶどう酒を浴びるように飲み、子供達は半狂乱染みた奇声を上げながら走り回っている。
中でも一際狂騒の坩堝にあったのは、ある馬小屋だった。
たくさんの松明と、ひれ伏すように集う人々。その先頭には、ミトラがいた。彼は撫で付けた髪が乱れるほど一心不乱に頭を振り、口からは緑色の管のようなものが伸びていた。
その管が繋がる先、馬小屋の一番奥にあるもの。
そこには、そびえ立つ緑色の肉塊があった。
うねうねと蠢くそれがなんなのか、その異形のものを前にミトラは何をしているのか、私には何一つとして理解できなかった。
想像を絶する光景を前に呆然とし、私は背後から近づいていた影に気がつかなかった。
「出て行けと、言ったはずだ」
引きずり出された私を見下し、ミトラは言った。彼の口の周りは赤く爛れていた。
「コラクスはどうした」
「あの若者のことか? 彼は……死んだ」
私の後ろで人々がどよめいた。
「まったく、なんということだ」
「……本当に申し訳なく思っている。彼は良くできた若者だった」
「そういった意味ではない。あぁ、まったく」
ミトラは乱れた髪を撫で付け直し、何事かを思案していた。
「だが、僥倖だったとも言える。あなたがここまで戻って来られたのだから」
私が言葉の真意を読み取れぬ間に、ミトラは背後の肉塊に祈りを捧げた。
「慈悲深きクリトゥルヌス様。今年はいささか趣向が異なりますが、変わらぬ寵愛を与え給う」
私の目の前に鎮座する、灯火に照らされた肉塊はこの世のものではなかった。
円錐の形をしたそれは緑色で粘膜性の光沢があり、節々からはたくさんの管が垂れ延びていた。それぞれの管はそれぞれで動き回っていた。
そのうちの一本が私の顔をひと撫ですると、地響きのような低い振動が辺りを揺らした。ほのかに甘い匂いが辺りに漂う。
「おぉ、クリトゥルヌス様に祈りを! 今年も我らに糧を与えて下さる」
歓声と共に男たちが数人、巨大な樽を運び入れ肉塊の前に置いた。男たちは垂れ下がる数本の管を樽の口に入れると、ナイフで管の端を切り落とした。
管からはとめどなく、赤い液体が流れ出した。それが、先日まで自らも口にしていたぶどう酒だと気がつかないほど、私は恐慌していたわけではない。
さらに親子が進み出て、何事かをミトラと話していた。
ミトラが頷くと、親子は肉塊に近づき、母親が管の端を切り落とすと子供に直接咥えさせた。ごくりごくりと喉を鳴らして、子供はぶどう酒を、否、肉塊の体液を飲み下した。ある程度子供が飲み終えると、親子は去っていった。
「では、あなたの番だ」
私の顔を撫で続けていた管が、私の口に吸い付いた。
体液を流し込まれるわけではない。何かが、私の中から出ていく。
嘔吐にも似た不快感を感じながら見上げると、緑色の肉塊は所々が石灰色に壊死していた。
さらに円錐の頂点から、赤い体液が流れ落ちてきている。
体液はみるみるうちに量を増していき、徐々に徐々に頂点が裂け、中から形の歪な黄色い肉塊が排出されようとしていた。
人々の熱狂的な祈りがこだまし、甘ったるい匂いが辺りを包み、それらすべてが松明によって暖色に染め上げられていた。
朦朧とする意識の中、ミトラが私に近づいて言った。
「これがクリトゥルヌス様の収穫祭です。毎年12月25日、クリトゥルヌス様が再度降誕なされるための儀式。今年からはコラクスを、と考えていたが仕方がない」
「安心してくれ、それで死ぬようなことにはならない。口の周りは爛れるがね」
赤と白で彩色された緑色の円錐の頂点に、歪な黄色の肉塊が鎮座していた。
「ようこそ新しい私たちの家族。歓迎しますよ、先生」
端的に言って、そこは貧しさしか生まれ得ない環境だった。
しかしそれでも、人々は祈りを止めなかった。
約束された恩恵があるから、人々は祈り続けることができる。
それが何かなのかは問題ではないのだ。
彼らは幸せで、そこは楽園に違いなかった。
クリトゥルヌスのぶどう酒 湫川 仰角 @gyoukaku37do
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