その6

 キザムの唇と流玲の唇がしっかりと触れ合った。


 きっと第三者がその光景を見たならば、仲の良い恋人同士がよくするキスに見えたかもしれない。しかし、二人にとってのキスは、危険極まりない行為でしかなかった。



 二人がキスすると──世界にゾンビカタストロフィーという名の破滅をもたらしてしまうのだ。



 それにも関わらず、流玲は自らキスをしてきた。その真意がキザムにはまったくもって理解出来なかった。


「な、な、流玲さん……ど、ど、どうして、キスなんて……? だ、だ、だって……ぼくらがキスをしたら……ゾンビ化が起きて──」


 気が動転し狼狽しまくるキザムを前にして、流玲は小さくゆっくりと首を振った。


「大丈夫だよ、キザムくん。わたしたちがキスをしても、何も起こらないはずだから──」


 はっきりと流玲はそう言い切った。何も起こらないと──。


「えっ、なんで……? だって、急にそんなこと言われても……信じられないし……」


 余りにも突飛な行動と発言をする流玲の態度に、キザムの頭は大混乱に陥ってしまった。てっきり流玲は自分の話を理解していなかったのかと疑ってしまった。


 戸惑うキザムに反して、流玲の方はいたって落ち着き払った様子だった。


「あのね、キザムくん。前に授業中にキザムくんが気分が悪くなったときがあったでしょ? そのときのことを覚えている? あっ、この世界ではなくて、前の世界での話だよ」


 唐突に流玲がそんな話をし始めた


「う、う、うん……それは、覚えているけど……」


 前の世界で、キザムは授業中に体調を崩してしまい、保健室のお世話になったことがあった。そのときはまだ高校生活に馴染めずにいて、気ばかりが焦ってしまい、熱を出してしまったのだ。



 そういえば、あのとき保健室に付き添ってくれたのが、クラス委員長を務める流玲さんだったんだよな。それがきっかけで流玲さんと話をするようになったんだけど──。



 高校に入学したての頃の記憶が少しずつ蘇ってきた。でも、決して今話をする内容ではない気がした。今はもっと重大な事態が起きようとしているのだ。のどかに思い出話に花を咲かせている場合ではない。


「もちろん、あのときのことは本当に感謝しているよ。でも、今はそんな話をしているときじゃないから。だって、ぼくらがキスをしたということは、流玲さんはゾンビ化しちゃうっていうことで──」


「だからね、キザムくん。あのとき保健室で横になっていたキザムくんに、初めてキスしたんだよ、わたし──」


 まるで、今日は天気が良いね、と世間話でもするかのような軽い口振りで、さらっと重大な秘密を流玲は打ち明けてきた。


「いや、だから、そういう話をしているんじゃ──えっ? 流玲さん、今なんて言ったの? キス……? ねえ、キスしたって言ったの?」


 キザムは自分の聞き間違いではないかと思って、慌てて流玲に効き返していた。


「うん。キスしたって、ちゃんと言ったよ」


 流玲が悪気のない無邪気そのものの顔で大きく頷く。


「あのとき、ベッドで横になっていたキザムくんを見ていたら、なんだか急に想いがこみ上げてきて、それで思わずキスしちゃったの。でも、わたしはゾンビ化しなかった。それってつまり、わたしたちがキスをしても大丈夫だっていうことでしょ?」


 流玲の話が正しいとしたら、これほど嬉しい報告はないが、でも素直に頷けない点がひとつだけあった。



 なぜ、流玲さんは保健室でぼくにキスをしたあとで、ゾンビ化しなかったんだろう?



 まずはその点をはっきりさせないとならない。しっかりとした解答が出るまでは、まだ素直に諸手を挙げて喜ぶというわけにはいかない。


 突然難問を突き付けられて頭を抱え込むしかないキザム。反対に、流玲はこれで問題は解決したと思っているのか爽やかな表情を浮かべている。


 面白いほど正反対の反応を示す二人。



 とにかく、もう一度冷静になって考えてみよう。今はもう考えるしかないんだ。どんな細かいことでもいいから、思い出して、想像を働かせて、考えを集中させて、そして、何としてでも答えを見付け出さないと! 



 キザムは必死に頭を働かせ始めた。ここで適切な解答を見つけ出せないと、前の世界で起きた大惨事がこの世界で再び繰り返される恐れがあった。



 ゾンビカタストロフィーの発生に『ステップ細胞』と『スキップ細胞』が関係していることはもはや疑いようもないんだ。ということは、問題になるのは、何がきっかけでゾンビ化が始まるかという仕組みの方なんだ。流玲さんの言う通り、キスによる感染でないとすると、他の可能性があるということなのかな? あるいは、『ステップ細胞』と『スキップ細胞』以外に、もしかしたら、ぼくが見落としてしまっている重要なファクターがまだあるのかもしれないな……。 



 キザムの脳裏にいろいろな場面、いろいろな人間の顔、いろいろな物が、高速で浮かび上がってくるが、そこに答えを見出せずに、思い出した記憶はたちまちのうちに頭の奥の方に消えていってしまう。



 ダメだ。なにも思い浮かばない……。



 一度結論めいた答えを出してしまったせいか、新たな解答がなかなか見出せずにいた。キザムが深いため息を付いて、一度思考するのを止めかけた、まさにそのとき──。


「そういえばキザムくん。今日の薬、まだ飲んでないみたいだけど大丈夫なの?」


 目の前でキザムの様子を不思議そうな顔で伺っていた流玲が、キザムの右手を可愛らしくつんつんと突いてきた。キザムの右手には、昼食後にいつも飲んでいる薬がまだしっかりと握られている。突然の流玲の登場で、薬を飲む機会を失してしまったのだ。


「う、う、うん……もちろん飲むけど、その前に難問を解かないと……」



そのとき──全身に光の流れが走り抜けていった。



 海馬に刻まれた記憶の集合体の中から、求める解答の核となるパーツが必然的に脳裏にぱっと浮かび上がってきた。それはまさしく天からのお告げ以外の何物でもなかった。


「そうか、『これ』だ! 謎を解く鍵は、『これ』だったんだ! ぼくは『これ』の存在をすっかり忘れていたよ!」


 キザムは薬を握り締めた自らの右拳を、勝利を確信したボクサーのように空中高く振り上げた。


 流玲が初めてキザムにキスをしたというあの日──キザムは教室で具合を悪くして流玲に付き添われて保健室で休息を取った。その時刻は『昼食前の午前中』だった。あの日に限って言えば、流玲がキザムにキスをしたのは、キザムがまだ『薬を飲む前』だったということになる。


 それに対して、ゾンビカタストロフィーが発生した当日にキザムと流玲がキスをしたのは、キザムが昼食を取った後の昼休み以降の時刻だった。つまり、キザムが『薬を飲んだ後』ということになる。




 もしも、もしも──この薬の粉末がぼくの唇に少しでも、ほんの少しでも付着して残っていたとしたら──。


 もしも──流玲さんとキスをしたときに、この薬の粉末が流玲さんの体内に取り込まれてしまったとしたら──。


 そして──その結果、流玲さんがゾンビ化を発症させたとしたら──。




「よし! 繋がった! すべて繋がったぞ! これでゾンビカタストロフィーの発生に至るプロセスは、全部解明出来たはずだ!」


 ようやく導き出した解答に、キザムは絶対の自信があった。今度という今度こそは、絶対に間違い無いはずだ。


「この薬がゾンビカタストロフィーの発生原因の一端をなしていたんだ! ということは、この薬を飲むときだけ、流玲さんに接触して感染しないように気を付ければいいんだ! えっ、待てよ。それって、つまり……薬を飲むとき以外は、ぼくは流玲さんとキスをしても良いってことになるんじゃ──」


 解答を見つけ出した喜びから、勢い込んでそこまで話したところで、当の流玲が自分の目の前にいることを唐突に思い出した。


「あっ、いや、流玲さん、これはそういう意味で言ったわけじゃなくて……。なんていうか、その……ようやく、ゾンビカタストロフィーの発生原因を突き止めたんだけど……つまり、そのことの確認方法を考えてみたら……自然とそんな風に思ったというか……いや、もちろん、キスしたいとかそういうつもりで言ったわけじゃなくて……えーと、その、つまり……」


 顔を真っ赤に染めながら、言い訳染みた言葉を乱発するしかないキザム。


「キザムくん、正しいかどうか確認するなら、簡単な方法があるでしょ? ──ここでもう一度キスをして、安全かどうか確認してみる?」


 流玲が再び背伸びをする。なんだか急に積極的な行動に出てくる流玲。自らの過去の秘密を打ち明けたことで、気持ちが吹っ切れたのかもしれない。


「えっ、流玲さん、そんな風に言われても……ほら、こういうことには順序があるというか……つまり、ぼくにも心の準備があるというか……なんて言うか……。あっ、そうだ。まだ考えないといけないことがあったんだ。そもそも、なんでこの薬がゾンビカタストロフィーの発生原因の一端になったのか、その点について考えないと。だから、キスはまた後回しで──」


 早口で言い募るキザムだったが、流玲の勢いに押されるがまま、二人の唇が重なろうとした、そのとき──。

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