その8

「ああ、そうだ。この世界は前の世界とは違うということを、オレに教えてくれたのを忘れたのか──?」


 カケルが焦るキザムに対して言い聞かせるように言った。


「それは……たしかに、ぼくはそんなことを言ったけど……でも、それがなんだっていうんだよ……?」


 キザムはまだカケルの言わんとしていることに気付けずにいた。


「ねえ、それって、この世界に『変化』が起きているっていうことが重要な問題なのかしら? つまり『バタフライエフェクト』が関係しているっていうことなの?」


 傍らで黙って二人のやり取りを聞いていた沙世理が話に加わってきた。


「ええ、そうです。今までの世界と今回の世界は違うんです。だとしたら、ここでキザムが死んでも、確実にタイムループが起きるとは保障出来ないということです。もしもキザムが時間を巻き戻すために自ら死を選んだとしても、最悪な場合、キザムだけが死んで終わりということになりかねません。それこそ文字通り、無駄死に以外の何ものでもありません」


 カケルの説明は理路整然としており、納得せざるをえなかった。しかし、頭ではそう分かっていても、気持ちは簡単に整理を付けることは出来なかった。


「それじゃ、ぼくはどうすればいいんだよ? ぼくのせいで流玲さんは死んだようなものなんだぞ……。ぼくが校庭に逃げるように伝えていれば、流玲さんは助かったのかもしれないのに……。ぼくのせいで……ぼくのせいで……」


 キザムの心が再び絶望色に染まっていく。あのとき、なんで流玲に校庭に逃げるように言わなかったのか、悔やんでも悔やみきれない思いが胸を貫く。


「とにかく、これ以上ここに長居しているのは危険過ぎる。いつゾンビが襲ってくるか分からないからな。オレたちも一旦校庭に避難しよう。先のことを考えるのはそれからだ」


 カケルがキザムの手を取り、その場に立たせようとする。


「なあ、カケル……。このまま流玲さんがいないままで、この世界は進んでいくってことなのか? もう二度と流玲さんには会えないってことなのか? 結局、ぼくはあの『大惨事』も防げなかったし、そればかりか、流玲さんも救えなかった……」


 キザムはカケルの手を払いのけて、力なく床に座り込んだ。


「キザム……」


 保健室が重たい空気に包まれた。だが、そこで意外な人物が救いの声をあげた。


「あの……ちょっといいですか……?」


 おずおずとした声で発言をしたのは、今まで静かにイスに座り込んでいた慧子である。ようやく混乱から落ち着きを取り戻したらしい。


「どうしたの? 何か話したいことでもあるの?」


 沙世理が気遣うように声を掛ける。


「あ、はい、もしかしたら、わたしが知っていることが役に立つかなと思って……。みなさんが話している内容は、正直よく理解出来なかったんですが、ただ、わたし──」


 保健室に今いるメンバーの中で、慧子だけはタイムループの事情を知らないのだから、当たり前の反応といえた。


「いいわよ。話したいことがあったら、なんでも話してもらって構わないから」


 沙世理が話の先を優しく促す。


「はい、それじゃ、話させてもらいますね。──あの、そちらの奥にいた人は……つまり、もう死んでいますけど……たぶん、流玲さんじゃないと思います……」


 慧子の口から飛び出した衝撃的過ぎる発言を聞いて、キザムはもちろんのこと、カケルも沙世理も顔色を変えた。


「ど、ど、どういうことですか? そ、そ、それってどういう意味なんですか? だって、流玲さんは──」


 キザムは地獄で仏に会ったような目で慧子の顔をじっと凝視した。


「キザム、落ち着くんだ! 今は慧子さんの話を冷静に聞こう」


 カケルが場の空気を読んだように声を発した。


「──慧子さん、話を続けてくれるかい?」


「はい、分かりました……。つまりですね、わたしのことはさっき話したと思いますが──」


「この騒動が起きる前は、理科準備室にいたっていう話だったよね?」


「ええ、そうです。わたしは校内放送を聞いて一度廊下に出たんですけど、そのときに見たんです」


「見た? それってまさか──」


「ええ、流玲さんを見たんです」


 慧子ははっきりとそう断言した。


「でも、どうして君は流玲さんのことを……?」


 それでもカケルは細かい質問を続ける。


「わたしは生徒会の委員をやっているんです。だから、各クラスの委員長のことはだいたい知っているんです。特に流玲さんはキレイな人だからよく覚えていたんです」


「それで君は流玲さんをどこで見たんだい?」


「わたしが廊下に出たときに、ちょうど流玲さんは三階に向かって階段を上っていくところでした。あの後ろ姿は絶対に流玲さんで間違いないと思います」


 流玲のことを話す慧子の表情に、うそ偽りは一切感じられない。皆の役に立ちたいという顔をしている。


「そうか、流玲さんは三階に向かったのか……。保健室が危険だと感じて三階に逃げたのかな? いや、三階に逃げるよりは、校庭に逃げた方が安全だと思うが……」


 カケルが腕組みをして、しきりに首を捻って何事か考える素振りを見せる。


「カケル、今はそんなことはどうでもいいだろう! 流玲さんが生きている可能性が出てきたんだから! 流玲さんを捜し出して、本人に聞けばいいだけだよ!」


 キザムは今すぐにでも保健室を飛び出して、流玲を捜しにいきたい気分だった。


「キザム、焦るな。まだ分からないことがひとつある。──それじゃ、保健室の奥で死んでいたのはいったい誰なんだよ?」


「それなら私が答えるわ。──おそらく、あの遺体は喜田藤くんだと思うわ」


 沙世理が輪の中に一歩進み出てきた。


「喜田藤? それって誰なんですか?」


「仮病を使ってしょっちゅう保健室に休みに来る男子生徒よ。まったく、私も迂闊だったわ。あなたたちから流玲さんの話を聞いていたから、てっきりあの遺体も流玲さんだとばかり思い込んでしまったみたい」


 沙世理がちらっと保健室の奥のスペースに悲しげな目を向けた。


「なるほど。そういうことだったのか」


 カケルもようやく納得したらしい。


「でも、先生が勘違いしたのもしょうがないですよ。あの遺体の状態では男女の区別はまったく付かないし、そもそも生前の姿すら想像出来ないくらい酷い有様だから……」


 キザムはカケルと沙世理の会話を聞きながら、喜田藤には申し訳ないけど、ゾンビに喰い殺されたのが流玲ではなくて本当に良かったと切に思った。


「一応、オレがもう一度遺体を確認してみます」


 言うが早いか、カケルは閉ざされたカーテンをもう一度開けて、素早く保健室の奥に入っていく。一分もしないで戻ってきたとき、カケルの顔には安堵の色が浮いていた。


「切り裂かれた制服の一部が落ちていましたが、女子のものではなく、男子のものでした。それと、手の指も何本かあったので念のため確認しましたが、こちらも太くてごつい男の指でした」


 つまり男女の区別が付くものは、それぐらいの物証しか残されていないということだ。それだけ喜田藤の肉体はゾンビに喰い散らかされたということでもあった。


「悪いわね、生徒のあなたに嫌な作業をやらせてしまって」


 珍しく沙世理がカケルに優しい声を掛けた。


「いえ、オレも自分の目で確認した方が納得出来ますから」


「それで、これからあなたたちはどうするつもりなの?」


「もちろん、キザムと一緒に三階に向かいます」


 カケルの言葉には一瞬の迷いもなかった。


「カケル……」


 キザムはカケルがキザムの気持ちを理解したうえで発言したのだと察した。


「いいのか? 本当にいいいのか? ぼくはひとりで行くつもりだったんだけど……」


「キザム、ここまで来たら、オレも最後の最後まで付き合うよ」


「カケル……ありがとう……」


 それ以上の言葉はもう出てこなかった。言葉にすると、今度は目から涙が溢れ落ちそうだったのである。


「分かったわ。二人は三階に向かうのね。流玲さんを見つけられるように祈っているわ。悪いけど、わたしたちは先に校庭に避難させてもらうことにするから」


 沙世理が下した決断に、キザムも異論はなかった。これ以上自分の我がままに沙世理を付き合わせるわけにはいかない。それに今は慧子がいる。沙世理が教師として生徒を避難させるのは当然のことだ。


「先生、ここまでありがとうございました。無事に逃げて下さいね。日立野さんも流玲さんについての情報を教えてくれて、本当にありがとう」


 キザムは沙世理と慧子に丁寧にお礼を言った。この二人がいなかったら、どうなっていたか分からない。二人に対しては感謝の気持ちでいっぱいだった。


 窓の外から緊急車両のサイレン音が聞こえてきた。誰かが通報したのだろう。これでようやく混乱も収束に向かうかもしれない。もっともゾンビを前にしたとき、果たして警察や消防がどの程度役に立つか見当も付かないが、それでもこれ以上の犠牲者はもう出ないだろうと思った。


「カケル、行こう」


 キザムはカケルに声を掛けた。


「ああ、分かった」


 カケルが一回軽く頷いて答える。



 二人はたった今逃げ出してきた地獄へと舞い戻るべく、再び保健室を出ていくことにした。

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