その7
「先生、流玲さんは? 流玲さんは無事なんですか?」
必死の体で逃げてきたので息も絶え絶えの状態のキザムであったが、今は自分のことよりも流玲の安否の方が気がかりだった。
「あっ、土岐野くん、今宮さんは──」
先に保健室に入っていた沙世理がなぜかキザムの前方に立ち塞がり、行く手を遮るような素振りを見せた。
「あ、先生、大丈夫です。流玲さんのことは自分で捜しますから」
流玲の姿を捜すのに夢中のキザムは空返事だけすると、沙世理の脇を抜けて、保健室をぐるりと見回した。しかし、流玲の姿はどこにも見当たらない。
「流玲さん? 流玲さん? どこにいるんだ? 隠れているの? もう出てきても大丈夫だよ」
流玲からの声はどこからも返ってこない。
「あっ、そうか。そこに隠れているんだね」
仕切りになっている白いカーテンが目に入った。保健室の中でまだ一ヶ所捜していない場所があることに気が付いたのだ。
「あっ、土岐野くん、そこはダメ! 開けたらダメよ!」
沙世理が掛けてくる声を無視して、キザムはカーテンに手をやった。そこで違和感が走った。真っ白いカーテンの所々に真っ赤な点々が付着しているのだ。
背筋にひんやりとした氷の冷気が走り抜けた。沙世理の顔の方に思わず目を向けた。
「土岐野くん……今宮さんはね……」
沙世理は今まで見たこともないような硬い表情をしている。
「先生……まさか……流玲さんは……流玲さんは……」
キザムは沙世理の表情から何か良くないことが起きたのだと察した。
「うそですよね……? 先生、うそなんでしょ……? ここに流玲さんはいるんでしょ?」
沙世理は答えずに、静かに頭を振るのみ。それが意味していることは──。
「うそだ……うそだ……。そんなはずない……。流玲さんはここにいるはずなん……。ここで待っていてくれているはずなんだ……」
キザムは震え出しそうになる手でしっかりとカーテンの端を掴むと、意を決して思い切り強く引き開けた。
カーテンレールがカタカタと耳障りな音を立てる。大きく開かれたカーテンの先に見えてきたものは、キザムが昼食を食べた後で必ず休息用に使っているベッド。いつもはしっかりときれいに三台並んで置かれているはずなのに、今はベッドの位置が大きくずれていた。斜めになったベッド。横に転がってしまっているベッド。もうひとつのベッドは完全に裏返ってしまい、ベッドの底が丸見えになっている。プロレスの乱闘騒ぎでも起きなければ、こんなにベッドが移動することはない。
異変はベッドの移動だけではなかった。
シーツがグチャグチャに丸まって床に落ちてしまっている。無理やり切り裂かれたようなシーツもあった。枕は無造作に投げ飛ばされでもしたかのように、あちらこちらに散乱している。
さらに大きな異変があった。ひと目でそれと分かるくらいの大きな異変だ。
本来は真っ白いはずのシーツにも、同じく真っ白いはずの枕にも、真っ赤な液体がべちゃりと付いていたのである。ゴミひとつ落ちてないくらいに清潔に保たれている保健室の床にも、真っ赤な液体が大量にブチ撒かれていた。壁には現代アートさながらの真っ赤な血飛沫模様の絵が描かれていた。
そして、何よりもキザムの目を奪ったものがあった。それは──。
「こ、こ、これって……これって……ま、ま、まさか……」
ベッドの周辺に散らばる赤黒い物体の数々。小さいものだと消しゴムサイズのものから、大きいものでは人の拳大のものまで、形も大きさもバラバラの物体がそこかしこに散らばっている。
よくよく目を凝らして見れば、それらの物体には血管の一部が絡み付いていたり、白い骨が顔を覗かせていたりしていた。人体模型で見たことある、臓器の形をしているものもあった。
そう、それらは紛れもなく人間の身体の一部だったのである。切れ味の悪い鉈で力任せに切り刻まれたかのように細かく裁断された人間の肉片が、床やベッドの上などありとあらゆる所に大量に散乱していたのだ。
「う、う、うぐっ……げ、げごっぼっ……うげっ……」
キザムの喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。慌てて両手で口を塞ぐ。しかし、肉片から視線だけは離すことが出来なかった。
こ、こ、この肉片の正体は……無造作に切り裂かれたような、この肉片の正体は……。
不意に頭がぐらぐらしてきた。前後左右に体が大きく揺れ出す。意識を正常に保つことが出来ない。余りにも凄惨極まりない光景を見て、精神が不安定になってしまったのだ。そのまま膝から力が抜けて、床に崩れ落ちそうになった。
「おい、キザム! 大丈夫か? しっかりするんだっ!」
すぐ近くでカケルの呼ぶ大きな声が聞こえた。
「カケル……流玲さんが……流玲さんが……ゾンビに食べられて……食べられて……」
キザムは朦朧とした意識の状態でうわ言のようにつぶやいた。
「キザム! おい、キザム!」
カケルが倒れそうになるキザムの体を両手で支える。
「キザム、お前がしっかりしないでどうするんだよ? こんなところで倒れている場合じゃないだろう!」
カケルの叱咤する声が聞こえるが、今のキザムにはもうどうでもいいことだった。保健室に来た目的は、流玲の無事を確認する為だった。その流玲がゾンビの餌食になってしまった以上、もう目的は果たせないのと同じである。
流玲さんを助けられなかったのならば、この世界で生きていても何も意味はないじゃないか……。
意識が絶望の深い闇に飲み込まれそうになった。それほどまでに流玲の存在というのが、キザムの中で大きな部分を占めていたのである。そのことに今さらながらにキザムは気が付いたのだった。そして、そんな大切な思いに気が付くのが、余りにも遅すぎたと言わざるをえない状況だった。
もうこの世界に用はない……。流玲さんがいない世界なんて薄っぺらな紙切れも同じだ……。ぼくはこれからどうしたらいいんだろう……。
だがそのとき、天啓のように一縷の希望の光が頭に閃いた。
いや、待てよ……そうか! その『手』があった! 流玲さんがいない世界ならば、『自分の手』でこの世界を変えればいいんだ!
最悪な方法ではあるが、確実にこの状況を変えうる方法をキザムは探り当てた。
「──なあ、カケル、今すぐぼくを殺してくれよ!」
それが絶望の底から現実に帰ってきたキザムが吐き出した、最初の言葉だった。
「──キ、キ、キザム……おまえ、いきなり何を言い出すんだよ!」
カケルもキザムの狂ったような発言を聞いてびっくりしている。
「だって、ぼくが死ねばまた時間がループして、流玲さんが生きている世界に逆戻り出来るはずだろう? 単純なことだったんだよ。ぼくが死ぬだけで良かったんだ。ゲームをリセットするようなもんだよ。──だからカケル、ぼくを殺してくれよ! 今すぐ殺してくれよ!」
キザムはすがりつくようにカケルの身体を両手で掴んだ。だが、カケルはといえば──。
「それはダメだ!」
カケルは言下に強い口調で否定した。
「どうしてだよ? まさか、カケルはこの世界のままで良いっていうのか? 流玲さんが殺されたままで良いっていうのか? せっかく流玲さんを生き返らせる方法があるのに、なんで反対するんだよ? なんでぼくの気持ちを分かってくれないんだよ!」
「違う! キザム、そうじゃない! そうじゃないんだ……」
カケルの顔にはなぜか苦悩の表情が浮いていた。
「それじゃ、どういうことだよ──」
「いいか、お前の身に起きているタイムループ現象は、たしかにお前が死ぬことによって発現している。それはおそらく間違いないことだ。でもな──」
「でも、何だって言うんだ?」
「でも、今回の世界は違うだろう? お前がオレに教えてくれたんだぞ!」
「えっ? ぼくがカケルに教えた……?」
気持ちの勢いのままカケルに言葉をぶつけていたキザムだったが、カケルの返事を聞いて初めて頭に疑問符が浮かんだ。
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