その7

 キザムは各教室の様子を横目で注意深く窺いながら、廊下を先へ先へと進んでいく。昼休みの終わりが近いため、教室にはすでに午後の授業の準備を始めた生徒たちの姿が数多く見受けられた。


 この中に、もしかしたら生徒を襲う犯人がいるかもしれない。そして、その犯人こそが『大惨事の源』であるはずなのだ。



 なぜ、この学校にゾンビが現われたのか? そもそも、なぜ犯人はゾンビになったのか?



 答えは分からないが、今は真相を突き止めるよりも、あの『大惨事』を未然に防ぐことが優先事項である。だから、キザムも深く考えることはしなかった。


 各教室を見て回ったが、おかしな点、不審な点、異常な点は見付からなかった。


 なんだか少しだけほっとした気分になった。あの『大惨事』の犯人が、自分の知る生徒の中にいるとは思いたくなかったのである。


 キザムは廊下を曲がり、次に音楽室や実験教室が並ぶ棟に向かうことにした。


「昼休みはそろそろ終わるぞ」


 前から廊下を歩いてきた、別の学年を担当している教師に声を掛けられた。


「先生に授業の準備の手伝いを頼まれたので──」


 自分でもびっくりするぐらいスムーズにうそをついていた。


「そうか。ご苦労さん」


 教師は一ミリも疑っていない。


 上手く教師をかわしたと喜んだのも束の間、本当の恐怖はすぐその後にやってきた。



 ガジャギャンッ!



 ガラスが砕け散る甲高い破砕音が聞こえてきた。


「どっかの生徒がふざけていて窓ガラスでも割ったか?」


 教師はまたかという顔をしている。


 だが、キザムはまったく別の反応をした。廊下を早足で駆け出したのである。


「おい、廊下は走っちゃいかんぞ! 午後の授業まではまだ時間があるんだから」


 教師が勘違いの心配をするが、むろん、キザムは無視して廊下を急いだ。急ぐ必要があった。


 なぜならば、ガラスが砕ける音は二階ではなく、『一階』から聞こえてきたのである。



 くそ! ぼくの予想が外れた! この世界では二階ではなく、一階であの『大惨事』に至る『きっかけ』が起きたんだ!



 悔しい気持ちを胸に抱いたまま廊下を駆けて行く。



 間に合ってくれ! 間に合ってくれ!



 そう念じながら一階に降りる階段の前までやってきたが、そこで耳に入ってきたのは今一番聞きたくない音だった。



 けたたましい大音量の非常ベル。



 午後の授業が始めるのを待っていた生徒たちが、非常ベルの音を聞いて、何事かと教室から出てきた。


「ダメだ! みんな、教室に戻って! 早く教室に戻って!」


 キザムの声に、しかし生徒からの反応は皆無だった。今この瞬間に起きている惨劇を知っているのは、この世界ではキザムと沙世理しかいないのだ。他の第三者はイタズラか何かだと思っているのだろう。


 生徒たちに避難を促すのを諦めて、キザムは一階へ降りていこうとした。


「きゃあああああーーっ!」


「うわああああああーーーっ!」


「助けてええええーーーっ!」



 階下から幾つもの悲鳴が重なって聞こえてきた。そして、階段を駆け上がって来る何人もの生徒たちの姿が見えてきた。どの顔も恐怖と驚愕で歪んでいる。



 ダメだ……間に合わなかったか……。



 生徒たちの顔を見て、キザムはそう判断した。きっと、もうすでにあの『大惨事』に至る『きっかけ』が、一階のどこかで起こってしまったのだ。



『全校生徒はただちに校庭に避難してください。繰り返します。全校生徒はただちに校庭に避難してください。これは非難訓練ではありません。授業中であろうと構いません。とにかく、大至急、校庭に避難してください』



 もはや聞き馴染んでしまった感がある校内放送が流れ始めた。


 階段を降りかけようとしていたキザムの足がピタリと止まる。今からどんなに急いだとしても、どんなに頑張ったとしても、もうあの『大惨事』が起きるのを未然に防ぐことは絶対に出来ない。



 いったい、ぼくはどうしたらいいんだろう……?



 完全に意気消沈して、やる気が消え失せてしまった。


 一階で起きていた騒乱と混乱が、たちまち二階にも飛び火していく。


 耳に入ってくる生徒たちの悲鳴、怒号、絶叫。


 ガラスの割れる音。イスや机が転がる騒々しい音。


 呆然と廊下に突っ立ったままのキザムの体を押し退けるようして、我先にと逃げ惑う生徒たち。


 校内は収拾のつかないほどの大混乱の状態に陥っていた。



 ごめんなさい……また助けられなかったよ……。みんなのことを助けられなかったよ……。本当に……ごめんなさい……。



 その場でしゃがみ込みそうになったキザムの肩に、不意に力強い握力が加わった。


「おい、キザム。こんなところで何をしているんだ!」


 声を聞いた瞬間、目から涙が零れ落ちそうになった。


「カケル……なんで……なんで、ここにいるんだよ……?」


「はあ? なんでって、教室にいたら廊下を歩いていくキザムの姿が見えたから、こうして追いかけてきたんだよ。キザムこそ、ここで何をやっているんだ? さっきの校内放送を聞いていなかったのか? 何があったのか知らないけど、早く校庭に逃げるんだよ!」


 カケルがキザムの手を引っ張って歩き出そうとする。


「カケル……間に合わなかったんだ……間に合わなかったんだ……」


「はあ? 何が間に合わなかったんだよ? 今から校庭に逃げれば間に合うだろう?」


「だから……ぼくのせいで、ぼくのせいで……みんな……みんな……」


「いいから、今は廊下を歩くことに集中しろ」


「もう遅いんだよ……。だって、だって……みんな──ゾンビに襲われちゃうんだから……」


 止めようとしたが、途切れ途切れの言葉が勝手に口から漏れてくる。


「おい、キザム、今なんて言ったんだよ! ゾンビだって? どうしてゾンビがいるんだよ? だいたい、キザムはここにいるじゃないか……。だったら、ゾンビはどこから現われたんだよ……? キザムは無事なんだから、ゾンビが現われるはずないし……」


 キザムの口からいきなりゾンビという言葉が出てきたせいか、カケルも心底驚いたようで、話の要領が得なかった。


「──くそ、今はゾンビの話は後回しだ。とにかく逃げるぞ!」


 そこで迷いを振り切るようして、カケルが強い口調で言った。


「逃げるって、どこにだよ……? そこら中にゾンビはいるんだぞ……。もう逃げられないよ……。もうゾンビに喰い殺されるしかないんだ……」


「キザム、しっかりするんだ! 泣き言なんか言ってないで逃げるんだよ!」


 カケルが強引にキザムの腕を引っ張って廊下を歩いていく。


 そのとき、廊下の左右から不気味な唸り声が聞こえてきた。


「おい、ひょっとして……これなのか……? キザムが言っていたゾンビって、こいつらのことなのか……?」


 カケルが足を止めた。廊下に現われた不自然な姿態をした生徒たちに視線を奪われる。


 制服のあちらこちらが無惨に切り裂かれている者がいる。白い肌から真っ赤な血を滴らせている者もいる。言葉にするのも躊躇われるほど、もっとひどい惨状を呈している者もいる。


 だが、たった一ヶ所だけ、同じ点があった。その顔付きである。



 限界まで腹を空かした肉食動物の飢餓感に満ちた顔。



「だから言っただろう……。もう、終わりなんだよ……。間に合わなかったんだから……」


 キザムはぼんやりとした表情を浮かべたまま、こちらに向かってくる何体ものゾンビ化した生徒たちの姿をまるで他人事のように眺め続けた。

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