その6

 二階の廊下に面したトイレの前に沙世理の姿があった。キザムが近付いていくと、にやにや笑いを浮かべて出迎えてくれた。


「土岐野くん、流玲さ──」


「さあ、周囲の警戒をしましょう」


 沙世理が流玲の話題を切り出す前に、キザムは機先を制した。


「甘い青春の1ページの話を聞きたかったのになあ」


 本気なのかどうか分からない口調で沙世理が言った。目が笑っているところを見ると、キザムをからかっているのだろう。


「先生、気を引き締めてください」


「分かってるわよ。ちょっと言ってみただけだから」


「ちょっと先生──」


 キザムが抗議の声をあげようとするのを遮って、沙世理が言葉を続けた。


「妙に緊張した顔の二人がトイレの前に突っ立っていたら、それこそ周囲の注目を引くでしょ? だから、少し緊張感を和らげることも必要なのよ」


「いや、そう言われればそうですけど……」


 沙世理の言う理屈は分かるが、どう考えてもキザムのことを本気でからかっているようにしか思えない。


「私は右側の廊下を注意して見ているから、土岐野くんは左側をちゃんと見ていてね」


 沙世理がこの話は終わりとばかりにキザムに指示を出してくる。


「はいはい、分かりました」


 キザムとしてもこれ以上この話題を続けたくなかったので、沙世理の指示に従って、廊下の左側の警戒を始めた。


 陽光が差し込む昼下がりの校内の廊下。複数の生徒が楽しげな顔で話をしながら行き交っている。ごくありふれた日常のワンシーンでしかない。


 そのとき、視界に見知った顔が入ってきた。


「先生、こっちです」


 すぐに沙世理に声を掛ける。


「分かったわ」


 沙世理がキザムの隣までやってきた。


「あの女子生徒に見覚えはないですか?」


 キザムにとっては、これが三回目の再会となる。倉野真知奈──それが女子生徒の名前である。


「たしかにあの女子生徒に間違いないわね。でも、おかしいわね……」


 沙世理がこちらに近付いてくる真知奈を見て、眉をひそめた。


「あの子、一人で廊下を歩いているわよね?」


「ええ、たしかに一人ですけど……えっ、でも、それじゃ先生が言うように、たしかにおかしいですよね。だって襲われたのはあの子じゃなくて、あの子の友達だったはずじゃ……」


 キザムの背筋にぞわりと冷たいものが走った。瞬間的にこの世界が始まってから感じた数々の違和感を思い出していた。


「先生……まさか、ここでも『変化』が生じているんじゃ……」


 そうとしか思えなかった。本当ならば、この後友里美という女子生徒がトイレ内で襲われて、ゾンビ化するはずなのだ。しかし、今ここに友里美の姿がないということは、あの『大惨事』に至る『きっかけ』に『変化』が起きてしまった可能性が高いということである。


「おそらく、土岐野くんが言っていることが正しいと思うわ。一番重要な場所で『変化』が起きてしまったのよ。でも、それだと非常にマズイわね」


 沙世理の顔から余裕が消えて、硬い表情が浮かぶ。


「とにかく、あの子に確認してみないと。もしかしたら、連れの子は後からトイレに来るのかもしれないし」


 沙世理が真知奈に近寄っていく。


「あっ、沙世理先生。なんで二階にいるんですか?」


 真知奈が沙世理に気軽に声を掛けてくる。


「こんにちは。あれ、いつも一緒にいる子は、今日はいないのね?」


 沙世理が親しげな口調でさらりと核心を突く質問をする。生徒に人気がある沙世理だからこそ出来る技である。


「友里美は今日はカゼで学校を休んで──」


 そこまで聞いたところで、沙世理がキザムの腕を引っ張って廊下の隅に素早く移動した。


「土岐野くん、今の聞いたわね?」


「はい、聞きました。カゼで学校を休んだみたいですね」


「これで完全に『変化』が起きていると分かったわ」


「どうするんですか? だって襲われるはずの生徒が学校に来ていないんですよ?」


「とりあえず私はあの女子生徒を見守ることにするわ。もしかしたら、あの女子生徒が襲われることになるかもしれないからね」


「それじゃ、ぼくはどうしたら──」


「土岐野くんは校内を警戒しながら見て回ってくれる? あの『大惨事』に至る『きっかけ』が別の場所で起こる可能性が出てきたから、十二分に気を付けてね。ここから先は私たちがまだ経験していない世界が始まるわよ」


「分かりました。なんとか『きっかけ』が起きる前に気が付いて、あの『大惨事』を止めることが出来ればいいんだけど……」


「先生、どうしたんですか? 友里美がカゼで休んだのって、何か問題でもあったんですか?」


 事情を知らない真知奈が問い掛けてきた。


「ごめんごめん。ちょっと急用を思い出しただけだから。──それじゃ、私はあの子のことをしっかりと見張ることにするから」


 沙世理が真知奈の元へと戻っていく。


 沙世理と真知奈が話し込む様子を確認してから、キザムも自分に割り振られた使命を全うすべく、次の行動に移った。



 今までの経験からいって、あの『大惨事』が起こるのは二階の可能性が高い。だとしたら、二階を重点的に警戒しよう。



 キザムはどんな些細なことも見逃さないように周囲を用心しながら廊下を歩き始めた。

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