その6

「ねえ……大丈夫、なの……?」


 真知奈の不審げな口調の声が聞こえてきた。てっきりキザムのことを気にして声を掛けてくれたのだと思ったが、それは勘違いだった。


「ねえ……ちょっと……様子が、おかしくない……?」


 真知奈の声に怯えが混じった。


「えっ? どうしたの?」


 真知奈に確認の声を掛けたキザムの背中に、突然、重い物体が圧し掛かってきた。


「きゃああああああーーーっ!」


 再び悲鳴を張り上げる真知奈。


 キザムは首だけ後ろに振り向けた。男子生徒の顔が間近にあった。顔をしっかりと見るのは初めてだったが、その異変は瞬時に察知することが出来た。



 限界まで腹を空かした肉食動物の飢餓感に満ちた顔と同じだったのである。



 この顔は……ひょっとして、この男子生徒は友里美さんに噛まれていたのか?



 そこまで思考が行き着いた瞬間、自分がどれだけ危険極まりない状況にいるのか悟った。



 くそっ! 噛まれる前になんとかしないと!



 体全体を大きく揺すって、背中に張り付いた男子生徒を振り剥がそうとしたがダメだった。


喜田藤きたふじくん、まさか、あなたもなの……?」


 沙世理が困惑の声をあげる。


「先生はこっちに近付かないで下さい。ぼくがなんとかしますから!」


 キザムの方に近付こうとしていた沙世理がぴたりと足を止める。


 キザムは男子生徒──喜田藤を背負ったまま、保健室の壁に背中から勢い良くぶつかっていった。男子生徒の力が一瞬緩む。そこですかさず男子生徒の右手を掴むと、見よう見まねで背負い投げの要領で男子生徒を床の上に叩き付けた。


「よし。これなら逃げられるぞ!」


 歩き出したキザムだったが、数歩も行かぬうちに、今度は足首を掴まれて盛大に転んでしまった。慌てて視線を下半身に飛ばすと、キザムの右足首をがっちりと掴む白い手が見えた。白い手は同じくらい白いシーツの中から飛び出している。友里美が手でシーツを破ったのだ。


「くそっ! 離せっ!」


 自由に動かせる左足で友里美の手を蹴り付けた。しかし硬く握り締められた手は、まるでセメントで固められたかのように張り付いていて、ぴくりとも動かない。そればかりか徐々に握力が強くなってきて、キザムの足首の骨を粉砕しようとしてきた。そして遂に──。



 グギュリッ!



 キザムの足首から不気味な異音があがった。


「うぎゅあああああっ!」


 キザムの喉の奥から悲痛な声が漏れ出た。


「──友里美、ごめん……」


 イスを手に持った真知奈が近付いてきた。さきほどのシーンの繰り返しである。人の形をしたシーツ目掛けて、イスを思い切り強く叩き付けた。手が離れないとみると、さらにイスを叩きつける。しかし、友里美の手の力は一向に緩まない。


 状況はさらに悪化していく。


 床に倒れていた喜田藤が立ち上がったのである。縦横に血筋が浮いた感情の読み取れない白濁の瞳が、キザムの姿を捕らえる。両手を前に伸ばしてゆっくりと歩き出す。ワイシャツの脇腹の辺りからは、じんわりと赤い染みが浮き出ていた。



 くそっ! やっぱり噛まれていたんだ! 



 キザムは悔しげに顔を歪めた。



『全校生徒はただちに校庭に避難してください。繰り返します。全校生徒はただちに校庭に避難してください。これは避難訓練ではありません。授業中であろうと構いません。とにかく、大至急、校庭に避難してください』



 スピーカーから避難を促す放送が流れてきた。幾度も聞いた放送である。


「土岐野くん、諦めないで! 一緒に逃げるわよ!」


 放送を聞いた沙世理も焦りを感じたのだろう。床の上で腹ばいになっているキザムのもとまで駆け寄ると、キザムの右手を自分の肩に回して立ち上がらせてくれた。


「やったー! やっと手が離れた!」


 真知奈が歓声を上げた。同時にキザムの足首から忌々しい感触が消える。


「真知奈さん、こっちを手伝ってくれるっ!」


「分かりました!」


 沙世理の指示を聞いた真知奈が、キザムの左半身を支えてくれる。


 キザムは両脇を女性に挟まれた格好でようやく歩き出した。しかし、足首の骨を折られたせいで、ペンギンみたいなヨチヨチ歩きになってしまう。視界の先にある保健室のドアがすごく遠くに感じる。



 ビギュリッ! ビギュリッ!



 背後で布状の物が力任せに引き裂かれる音が上がった。振り返って確認せずとも、友里美がシーツを引き千切ったのは容易に想像出来た。


 三人の背後から、ゾンビ化した二人の生徒が手を伸ばしてくる。


 沙世理がキザムを支えたままという不安定な体勢で、伸びてきたゾンビの手を無理やりに振り払おうとしたが、かえって体勢が悪くなった。


「あっ──」


 沙世理の口から声が漏れ出たときには、すでに三人の身体は連なるようにして床に向かって傾いていた。


 そこにゾンビ化した二人の生徒が群がってくる。


「きゃああああああーーーーっ!」


 三度目となる真知奈の悲鳴。しかし、その悲鳴はすぐに呻き声に変わった。友里美ががっつりと真知奈の太ももに喰らい付いたのだ。


 沙世理も似たような状況だった。喜田藤が沙世理の細い首筋に歯をめり込ませていた。そこからシャワーの様に鮮血が噴き出している。すでに沙世理の顔からは一切の生気が消えており、死者のごとく白い肌になっている。



 ぼくのせいで……ぼくのせいで……ぼくのせいで……ぼくのせいで……。



「うわああああああああああーーーーーーっ!」


 キザムは絶望的な絶叫を張り上げながら、二体のゾンビに飛び掛かっていった。



 そして、数分後──。



 クチャクチャ……クチャクチャ……クチャクチャ……。



 生々しい咀嚼音だけが保健室に響く。




 沙世理の身体も、


 真知奈の身体も、


 キザムの身体も、




 二体のゾンビに喰い尽くされて、見るも無惨な只の肉塊と化していた。人間としての形は、そこにはもうまったく残っていなかった──。

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