その5

「────!」


 何が起こったのか分からぬまま、キザムは急いで振り向いた。視線の先には、ベッド上で激しく揉み合う二人の生徒の姿があった。


 男子生徒と友里美の二人である。男女二人といっても、色っぽい雰囲気は皆無だった。なぜならば、友里美が男子生徒をベッドの上に押さえつけて、今にも大きく開いた口で噛み付こうとしているところだったのだ。


「きゃああああああーーーっ!」


 ひと目で異常事態が起きていると察したのか、真知奈が部屋中に響き渡るほどの悲鳴をあげた。



 この男子生徒はいったいどこから現われたんだ……?



 キザムは今まで蓄積された記憶を瞬時に思い返していく。すぐに解答が見付かった。この男子生徒は仮病を使ってベッドで横になっていたところを、ゾンビ化した友里美に襲われたに違いない。だとしたら──。


「早く助けないと!」


 キザムの声に促されたようにして、沙世理も声を上げた。


「土岐野くんは友里美さんの右腕を持って!」


「分かりました!」


 一言聞いただけで、沙世理のやろうとしていることは理解出来た。


 キザムと沙世理はベッドの両脇に立つと、友里美の左右の腕をそれぞれがっちりと掴んだ。男子生徒の身体から引き剥がすべく、力いっぱい友里美の腕を引っ張り上げる。


 しかし、友里美は両腕で男子生徒の身体をむんずと掴んでいて、なかなか引き剥がすことが出来ない。友里美の両手の爪が身体に食い込んでいるのか、男子生徒の皮膚から血が滲み出している。


「くそっ! 離せっ! 離しやがれっ!」


 友里美の体の下になっている男子生徒も友里美に噛み付かれないように、必死の形相で顔を左右に振っている。


「土岐野くん、もっと力を入れて!」


 沙世理の声に焦りが混じる。


「やってます!」


 大声で返事をしつつ、友里美の腕をさらに強く引っ張る。


「──友里美……もう……止めてえええええええーーーーーーーーっ!」


 真知奈の悲痛な叫び声がすぐ近くで聞こえた。真知奈は手に持ったイスを頭上高くに持ち上げていた。一瞬だけ躊躇する素振りを見せたが、すぐに決断したのか、振り上げたイスを友里美の頭目掛けて勢い良く振り下ろした。



 グジュンッ!



 柔らかい物体が潰れる音がした。友里美の身体から瞬間的に力が抜け落ちる。その機会を見逃すことなく、キザムと沙世理は友里美の腕を引っ張った。


「うりゃああああああああーーーー!」


 友里美がようやく男子生徒の身体から離れた。二人に引っ張られた勢いで、友里美はそのまま床の上に転がり落ちる。


「土岐野くん、彼女を押さえておいて!」


「えっ? は、はいっ!」


 キザムはうつ伏せで床に転がる友里美の背中目掛けてジャンプするようにして圧し掛かった。相手は女子生徒であるが、今はそんなこと構っていられない。少しでも加減したら、こちらがやられかねないのだ。


 全体重を掛けて友里美の身体を押さえ込もうとしたが、すぐに友里美は狂ったように暴れ出した。イスで叩かれた頭の傷程度ではなんともならないらしい。その事実だけをもってしても、今の友里美の状態がいかに異常なのか分かる。


「せ、せ、先生! は、は、早く! 早くしてください! ぼくひとりじゃ……とても押さえ……切れません!」


 キザムの声を聞いて最初に反応したのは真知奈だった。友人をイスで強打した後は呆然としていたが、生存本能を突き動かされたのか、手にしたイスを投げ捨てて、キザムの元に駆け寄ってきた。


「あたしも力を貸すわ!」


 真知奈はキザムと一緒になって友里美の背中に体重を掛けて、友里美の動きを封じ込めようとする。


「これで動きを封じるわよ!」


 沙世理がぐしゃぐしゃになったベッドの上からシーツを引っ剥がして持ってきた。


 そのシーツを急いで友里美の身体に被せる。次に三人で力を合わせて友里美の身体をシーツごと床の上で転がしていく。一分もしないで、シーツでグルグル巻きにされたミイラが完成した。


 シーツの内側から人間のものとは思えない低い唸り声が漏れてくる。両手両足をめちゃくちゃに動かしているのか、シーツの表面が大きくうねっている。しかし、シーツが破れることはなかった。


「ようやく、これで一安心っていったところね……」


 床に座りこんだままの姿勢で、沙世理が似つかわしくない苦笑いを浮かべている。


「さて、土岐野くん、これはいったいどういうことなのかしら? もちろん、ちゃんと説明してくれるわよね?」


 沙世理が鋭い目でキザムのことを見つめてきた。ちゃんとした返事を聞くまで許さないわよ、とその瞳が言っている。


「えっ……あ、はい……それは、その……」


 言い淀んでしまうキザム。



 でも、ここまできたらもう仕方ないよな……。この状況だったら、きっと沙世理先生だって納得してくれるかもしれないし……。



 そこでキザムは自分が考えた仮説を話すことに決めた。


「先生、たぶん、友里美さんは──『ゾンビ』になったんだと思います……」


 初めて『ゾンビ』という単語を口に出した。これほど非現実的な言葉もないが、今の状況を現わすのにこれほど適切な言葉は他になかった。


「えっ? ゾ、ゾ、ゾンビって……あの、ゾンビのことなの……? それじゃ、友里美はゾンビに……」


 戸惑いと不安の表情を交差させているのは真知奈だった。



 ゾンビ──生き返った死者のことを差す言葉である。ハイチ共和国の民間信仰であるブードゥー教から発生したものと言われているが、一般に広まるようになったのは、映画やゲームでモンスターとして登場するようになってからである。ゾンビに噛まれた者もまたゾンビと化す、という原理もよく知られている。



「──なるほどね」


 一方、沙世理はさもありなんという風な顔をしている。驚いた様子は見られない。また、怖がっている感じもない。


「先生は分かっていたんですか?」


「まさか、そんなことあるわけないでしょう。医学的な見地から見れば、ゾンビなんて絵空事でしかないのよ。でも、実際にこの目で見ちゃった以上は信じないわけにはいかないからね」


 なんとも養護教諭らしい物言いだった。


「土岐野くんは『コレ』を止めたかったの?」


「はい、この現象が校内中に広がって、やがてとんでもない『大惨事』に発展するんです」


「それじゃ、その『大惨事』もこれで起こらなくなったのかしら? 防げたって考えてもいいのかしら?」


「はい、これで──」


 そこまで言い掛けたとき、キザムの背筋に氷の寒気が走り抜けていった。


「いえ、まだダメです! 大事なことを忘れていました!」


 キザムはハッとしたように立ち上がった。シーツに包まれたゾンビ化した友里美の方に警戒の目を向ける。


「先生、友里美さんは『大惨事』の根源ではなかったんですよ! 誰かに噛まれて、その結果、ゾンビ化したんです! つまり──」


「──友里美さんに噛み付いた者を突き止めないといけないということね」


 話の後半部分を沙世理が引き取った。


「ええ、そういうことになります──」


 キザムは重たい声で搾り出した。



 あのとき、女子トイレ内には友里美さんに噛み付いた何者かがいたんだ! そいつこそがあの『大惨事』の根源だったんだ! そいつを見つけないと、あの『大惨事』を防ぐことは出来ないんだ!



 キザムが事の真相に辿りつくのとほぼ同時に、けたたましい大音量の非常ベルが鳴り響いてきた。


 この非常ベルには聞き覚えがある。非常ベルが鳴ったということは、校内のどこかであの『大惨事』に至る何かが起こったという知らせだ。



 くそっ! やっぱり友里美さんだけを保護してもダメだったんだ……。



 気持ちががっくりとした。ここまでの頑張りはすべて無駄だったということなのだ。

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