その3

 勢い勇んで廊下に出たはいいが、視界に入ってくる景色に異常な点は一切見当たらなかった。聴覚にも、異常な音は入ってこない。



 あれ? 想像していたのと違うけど……?



 キザムは戸惑いを感じつつも、とりあえず沙世理を捜すことにした。


 廊下を歩いていくと、何人もの生徒たちとすれ違った。教師ともすれ違った。どの顔にもごく自然な表情が浮いている。何かに恐怖するとか、怯えているといった負の感情は見られない。



 やっぱり、ぼくの勘違いだったのかな? あの悪夢はただの夢だったのかな? 沙世理先生は用事が出来て、保健室を出ていっただけなのかもしれないな。



 自分がひどく滑稽なことをしている気がしてきた。よくよく考えてみれば、校内で死体の山が出来て、あろうことか、その死体が動き出すなんてことは常識的にありないのだ。



 まあ、これが悪夢でないのならば、このまま自分の教室に戻ってもいいけだけだしな。



 さきほどまでの緊張感が緩和されて、気持ちに余裕が出てきた。


 だが次の瞬間、キザムの胸に緊張が走った。遠くの方からガラスが砕け散る甲高い破砕音が聞こえてきたのだ。


「────!」


 思わず足を止めて、音が聞こえてきた方に目を向けた。廊下を行き交う生徒たちの中にも、キザムと同じように音に気が付いて、足を止めた者が何人かいた。


「誰かがふざけているうちに、窓ガラスを割ったんじゃねえの?」


 近くにいた男子生徒が話す声が聞こえる。普段のキザムだったら頷いているところだが、今は素直に頷けない。


「廊下でホウキでも振り回していて、それが窓ガラスにぶつかったっていうところだろうな」


 別の男子生徒がもっともらしい意見を述べていた。


 校内で窓ガラスが割れることは、そう珍しいことではない。だから、今回も何か大きな事件が起きたわけではないと、あえて口に出さずとも、誰もがそう心中で思っていたのである。


 しかし──。



 ガジャギャンッ! ガギャギギッ! ギャダッンッ!



 窓ガラスの割れる音と机やイスが床にぶつかる音が聞こえてきた。


「キャギャーーーっ!」


「うわっ! なんだっ!」


「いやああああーっ!」


 さらに、間髪入れずに続けざまに生徒たちの騒ぎ立てる大きな声が聞こえてきた。


「やっぱりあの悪夢と同じ展開じゃないか!」


 キザムがまさに一歩踏み出そうとしたとき、廊下にけたたましい大音量の非常ベルが鳴り響いた。


「おい、なんだ、これ?」


「えっ、火事でも起きたのか?」


 キザムの周辺にいた生徒たちも困惑の表情を浮かべ始めた。


「みんな、早く校庭に逃げるんだっ!」


 キザムは周りにいた生徒たちに早口で言うと、自分は階段に向かって早足で向かった。


 廊下を進みながら後方にチラッと視線を向けると、そこにはぼーっと佇んでいる生徒たちの姿があった。いきなり逃げろと言われて戸惑っているのだろう。



 詳しい説明をしたいところだけど、今はそんな時間がないんです。お願いだから、ちゃんと逃げて下さいよ。



 一階の廊下ならば安全に校庭に逃げられるだろうと思って、それ以上彼らに構うことはしなかった。今は二階の様子の方が気になる。


 キザムは階段に足を掛けて上り始めた。踊り場まで一息に上がる。


「ここに血の跡はないな……。ということは、まだ間に合うかもしれない!」


 素早く踊り場の床を目で確認した。悪夢の中では、踊り場の床に飛び散ったような血の染みが点々と残っていたのだ。



 沙世理先生、カケル、流玲さん、どうか無事でいてくれよ。



 心の中で念じながら二階に駆け上がった。


 二階は左右に廊下が伸びる構造になっている。左側の廊下からたくさんの生徒たちがこちらに向かって走ってくる姿があった。


 キザムは生徒たちの波に逆らうようにして廊下を進んで行こうとしたのだが、多勢に無勢でなかなか前に進めなかった。そればかりか──。


「おまえ、そこをどきやがれ! ジャマなんだよっ!」


「そっちに向かったら危ないわよ!」


「立ち止まっていないで早く逃げるんだ!」


 キザムに向けて様々な言葉が投げ掛けられた。


 異常事態の中、誰もが興奮状態にあり、冷静さを欠いている。キザムが事情を説明したくとも、とてもじゃないが聞いてもらえるような状況ではない。


 さらに追い討ちを掛ける事態が起きた。



『全校生徒はただちに校庭に避難してください。繰り返します。全校生徒はただちに校庭に避難してください。これは避難訓練ではありません。授業中であろうと構いません。とにかく、大至急、校庭に避難してください』



 スピーカーから避難を促す放送が流れた。悪夢の中で聞いた放送と一言一句まったく同じである。


 校内放送をきっかけにして、逃げ出す生徒たちの数が激増した。右側に伸びた廊下の先からも、生徒たちが次から次に教室を飛び出してくる姿が見えた。混乱を収めるはずの校内放送によって、逆に混乱が加速してしまうという皮肉な結果に陥った。



 マズイな……。この混乱が少し収まるのを待つしかないか……。



 キザムは人の流れに巻き込まれないように、近くの教室に一時、避難することにした。


 教室内は惨状を示していなかった。机とイスの位置が若干ずれている箇所はあったが、あとは普段通りの教室と変わらない。生徒たちの姿はなかった。階段に一番近い教室なので、校庭に非難するのも早かったのだろう。


 廊下側の窓に目を向けると、非難する生徒たちによる大渋滞が起きていた。まだまだ混乱は収まりそうにない。



 そうだ。この間に、何か武器になるような物を探しておこう。



 キザムは教室の後ろにある掃除用具入れを開けた。中には掃除道具が乱雑に仕舞われている。



 とりあえず、武器になりそうな物といったら……。



 キザムは柄の長い床ホウキを手に取った。柄が細いので耐性に期待は出来ないが、そもそもこのホウキを勇ましく振るうつもりはないので、これに決めた。



 他に今のうちに準備出来ることといったら──。



「あっ、そうだ! 簡単なことを忘れてよ!」


 この混乱で自分でも知らぬうちに気が動転していたらしい。


「スマホを使ってカケルと連絡すれば良かったんだ」


 キザムは制服のポケットからスマホ取り出して、さっそくカケルに連絡を入れた。


『おい、キザムか? 本当にキザムなのか? おまえ、生きているのか? どういうことなんだよ?』


 すぐに通話が繋がった。カケルも混乱しているのか、言葉にまとまりがなかった。


『ぼくは今二階にいるよ。カケルこそどこにいるんだ? カケルに伝えないとならないことがあるんだ』


『えっ? 何だって? 悪い、こっちも大混乱していて、話に集中出来ないんだ……』


『カケル? カケル?』


 スマホ越しに大きな声で呼びかけたが返事はこない。ほどなくして、プツッと通話は切れてしまった。


「やばいぞ……。カケルの身に何かあったかもしれない……」


 キザムの心が不安の波にもっていかれそうになる。


「きゃあああああああああああーーーーーっ!」


 そのとき、廊下の向こうで女子生徒の切り裂くような悲鳴が木霊した。

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