その2
「失礼します」
最初に室内に向けて声を掛けてから、保健室のドアを静かに開けた。
「ああ、土岐野くんね、こんにちは。今日の体調はどうかしら?」
机の前に置かれたイスに座っていた若い女性が、器用にイスをくるっと回転させて、キザムの方に体ごと向けてきた。養護教諭の白鳥河沙世理である。
「すみません。なんだか頭が少し重いみたいな感じがして……」
「ちょっと、大丈夫なの? きみは他の生徒さんとは身体の状態が違うんだからね」
沙世理の顔に緊張が走ったのを見て、キザムは急いで言葉を付け加えた。
「あ、そこまで大袈裟なことじゃないので、どうか心配しないでください。たぶん、昨日遅くまで勉強していたせいだと思います。少し横になれば元気になりますから」
「──本当に大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です。──じゃあ、ぼくは休みますので。えーと、一番奥のベッドは使用中なんですよね?」
「えっ? う、うん……そうだけど……。あれ? わたし、そのことを土岐野くんに教えたかしら?」
沙世理の頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かぶのが見えたので、キザムは仕切りになっているカーテンを物凄い勢いで引っ張って、そのままベッドに直行した。
「それじゃ、休みまーす」
わざとらしいくらい大きな声で言って、沙世理の追及の質問を拒むことにした。
さあ、ゆっくり頭を休めよう。きっと次に目を開けたときには、すべてが元に戻っているはずだから……。
淡い期待を抱きつつ、上履きを脱いで一番手前のベッドの上にゴロンと寝転がる。そのまま目を閉じて、夢の世界に運ばれるのをじっと待つ。
しかし待てど暮らせど、一向に眠気はやってこない。反対に、頭が妙に冴えてきて、意識がクリアになってきた。
完全に眠気が飛んじゃったみたいだな……。
仕方なく一度起き上がろうとしたとき、保健室のドアが開く音が聞こえてきた。続いて、沙世理と誰かが何やら話す声が聞こえてきた。
あれ? この声はたしか流玲さんの声じゃ……。
仕切りのカーテンが音もなく静かに開かれた。
やばいっ。眠った振りをしないと──。
起きていても悪いわけではなかったが、なんとなく寝ていた方がいい気がしたので、すぐに寝ている振りをした。
「キザムくん……」
てっきり沙世理が様子を見にきたのだと思ったが、ベッドサイドに来たのは流玲の方だったらしい。
「ねえ、キザムくん……わたしのこと、覚えている? それとも、もう忘れちゃったかな?」
流玲はキザムの耳にしか聞こえないくらいの囁き声でつぶやいた。
覚えている……? 忘れた……? 流玲さんは何のことを言ってるんだろう?
キザムが疑問に思っていると、不意に顔の上に柔らかい風が流れた。同時に、唇に柔らかいものが接触する感覚が走った。
えっ、これって、まさか……?
思わず目を開けて確認したくなったが、ここで目を開けたら一大事になることは間違いなかったので、ぐっと堪えた。
「それじゃ、私は教室に戻るからね」
それだけ言い残して、流玲は保健室から出て行った。
あとに残されたキザムはというと──。
頭の中が更なる混乱をきたしていた。
もしかして、これも夢の中の出来事なのかな? いや、あの唇の感触はたしかに本物だったからなあ……。でも、ぼくの記憶にある悪夢の中では、流玲さんとはキスしていなかったはずだし……。ていうか、そもそもなんで流玲さんはぼくにキスしたんだろう? えっ、ぼくに気があるってことなの……?
混乱に拍車が掛かって、もはや眠るという気持ちはすっかり消え失せてしまった。
しばらくの間、キザムがベッドの上で悩ましげに頭を抱えていると、保健室のドアがまた開く音が聞こえてきて、すぐに沙世理が慌ただしく廊下に出て行く足音が聞こえてきた。
校内で誰か怪我でもしたのかな……? 沙世理先生、けっこう忙しいんだな……。あっ! この感じは、あの悪夢と同じ展開じゃないか!
この後、遠くの方からひどく騒がしい人の声が聞こえてきて、ガラスが砕け散る派手な音も聞こえてきて、そして非常ベルが鳴り出して──。
そこまで悪夢の内容を思い返したところで、キザムは慌てて次の行動に移った。あの悪夢の中では、この後沙世理は死んでしまうことになっているのだ。
これが悪夢の続きなのか、それとも現実なのか、今はそんなことはどうでもいい。とにかく沙世理先生と、それからカケルと流玲さんのことが心配だ! この目でちゃんと無事な姿を確認しないと!
キザムはベッドから降りて、上履きを履きなおした。チラッと壁に掛かった時計を見ると、そろそろ昼休みの時間が終わる頃だった。
「よし、行くぞ!」
心を決めて保健室のドアを開けると、廊下へと飛び出した。
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