その4

「────!」


 一瞬躊躇したが、キザムの足は廊下に向かって歩み出していた。悲鳴の響きから一刻を争う事態だと察したのである。


 廊下を行く生徒の流れは、さらに勢いを増していた。先ほど聞こえた悲鳴によって、混乱が増したのだろう。


「前に行かせてください! 前に行かせてください!」


 文字通り人の波を縫うようにして、人の流れとは逆に廊下を進んでいく。何人もの生徒たちから邪魔者扱いされたが、こちらだって好きで逆走しているわけではない。人の命がかかっているかもしれないのだ。


「きゃあああああーーっ!」


「うわああああああーーーっ!」


「助けてええええーーーっ!」


 生徒のあげる悲鳴が間を置いて何度も木霊する。


 廊下を避難している生徒たちの顔にも変化が生じた。明らかに恐怖で怯える表情が浮かぶ。ここにきて、避難する生徒の誰もが、現在校内で《何か良くないこと》が起きていると、肌で感じとったのだ。


「間に合ってくれよ……間に合ってくれよ……」


 手に床ホウキをしっかり握りしめて廊下を進んでいくと、不意にキザムの目の前から人の姿が消えた。ようやく人の波を掻い潜ったのである。


「誰かー! 誰かいませんか!」


 声をあげながら、すぐ近くの教室を覗いた。しかし、そこには人っ子一人いなかった。すでにもぬけの殻と化している。


「くそっ、この教室じゃないのか。隣の教室を見て回ろう」


 再び、廊下の先を急ぐ。


「誰かー! 誰かいませんか!」


「ここです……ここに、います……」


 キザムの呼びかけに、囁くような声で返事があった。


「今行きます!」


 キザムは声のした教室に勢い良く飛び込んだ。だが、一歩踏み込んだところで、足が急停止してしまった。


「────!」


 壮絶的な光景が目の前に広がっていた。これは本当に現実なのかと思わず疑ってしまう光景だった。


 教室の床の上にしゃがみ込んで、頭と手を激しく動かす何人もの生徒たち。始めはなぜそんなに生徒たちが慌ただしく動いているのか分からなかった。もしかしたら怪我をしている他の生徒の手当てをしているのかと思った。だが、それはキザムの大きな勘違いでしかなかった。よく目を凝らして見て、ようやく何をしているのか分かった。


「う、う、うそ……だろう……」


 頭で感じた疑問がそのままつぶやきとして口から漏れていた。


 生徒たちの足元付近には、ドロドロとした真っ赤な液体が広がっている。耳に聞こえてくるのは、生徒たちが『何か』を咀嚼しているクチャクチャという汚らしい音である。


「だず、げで……ぐ、われる……だずけ……」


 糸のようにか細い声が生徒たちの輪の中心から聞こえてくる。


 果たして、生きながらに喰われるというのが、どんな激痛をともなうのか分からないが、最悪なことが起きているのだけは分かる。


「…………」


 キザムは喉元まで出掛かった悲鳴を気力でなんとか押しとどめた。



 ごめんなさい……もう、助けられそうにないよ……。



 心中で謝る。そして、当初の目的を思い出して行動に移る。


 教室をぐるっと見回す。教室の後ろにあるロッカーを背にして立つ女子生徒の姿が目に入った。キザムの呼びかけに答えた生徒に違いない。女子生徒の視線もまた教室の中央付近に釘付けだった。


 キザムは恐怖で立ち尽くしている様子の女子生徒に目で合図を送った。声を出すのは危険だと判じたのである。


「あっ──」


 キザムの存在に気付いたのか、女子生徒が声を上げそうになったので、キザムは慌てて指を唇につけて、静かにするように合図した。


「…………」


 女子生徒ははっとしたように声を止めて、次にゆっくりと頷いた。



 とにかく、急いで逃げなくてはならなかった。この地獄と化した教室から。地獄の亡者に喰われる前に──。



 キザムはこちらに来るように手で合図した。女子生徒が慎重に足を動かし始める。『食事』に夢中になっている生徒たちは、まだこちらの動きに気が付いていない。



 大丈夫。大丈夫だから。



 心の中で女子生徒に声を掛けつつ、『食事中』の生徒たちにも全神経を集中させて注意を払う。


 じっくりと三分近い時間を掛けて女子生徒がキザムのもとまでやってきた。


「何があったの?」


 キザムは小声で訊いた。


「わ、わ、分かんない……。いきなり『あいつら』が教室に入ってきて……そして、堂前どうまえくんを……」


 女子生徒は身体も震えていたが、声も震えていた。堂前というのが、喰われている生徒の名前なのだろう。


「早くこの教室を出よう」


 キザムは女子生徒を促した。


「う、うん。そうだね……」


 女子生徒は再び歩き出そうしたが、そこで何かに気付いたように顔を上げた。


「そういえば、まだあなたの名前を聞いていなかった……。あたしは倉野真知奈くらのまちな──」


「あっ、うん……ぼくは土岐野キザムだよ」


「──助けにきてくれてありがとう、キザムくん……」


 真知奈が体をぐっとキザムの方に寄せてきた。ハリウッド映画ならここで色っぽい雰囲気に突入するところだが、現実はそう甘くない。


 自分に近付いてきた真知奈に驚いて、キザムは手に持っていた床ホウキを落としてしまったのである。



 カツーンッ!



 ホウキの柄と床がぶつかって、妙に甲高い音が教室内に響き渡った。


 キザムと真知奈は思わず互いに顔を見合わせた。同じような強張った表情。


 先ほどまで聞こえていたクチャクチャという咀嚼音が唐突に途絶えた。


 キザムは恐る恐る教室の中央付近に目を振り向けた。そこに見えたのは──。



 口元を血で真っ赤に染めて、縦横に血筋が浮いた感情の読み取れない白濁の瞳でこちらを見つめる生徒たちの顔、顔、顔──。



 どの顔にも同じ表情が浮かんでいる。限界まで腹を空かした肉食動物の飢餓感に満ちた顔──。


「────!」


 はっと息が詰まった。視界の隅には堂前の体も見える。少し前まで生きていたと思われる床の上の堂前は、もはやひと目で死んでいると分かるくらい壮絶な状態を晒していた。


 腹からは血まみれの管状の内臓が引きずり出されている。右手は肩の先から引きちぎられていて、白い骨が顔を覗かせている。頬の肉はごっそりと無くなっており、そこから口内の歯が丸見えである。


「いや、いや、いや……いやあああああああーーーっ!」


 今まで必死に堪えていたものが、遂に崩壊してしまったらしい。真知奈の口から絶叫が迸り出た。


 その絶叫を合図にしたかのように、血まみれの生徒たちが一斉にキザムたちの方に向かってきた。


「逃げるよっ!」


 キザムは床からホウキを拾い上げると、真知奈の右手を掴んで廊下に飛び出した。そこで素早く振り返り、教室のドアを閉めようとしたとき、右手に鋭い痛みが走った。思わず痛みの箇所に目をやると、右の手首に生徒の頭があった。手首に噛み付いてきたのである。


「くそっ! 離せっ! 離せっ!」


 キザムは髪の毛ごと生徒の頭を掴んで、強引に引き剥がした。手首から血が滴り落ちているが、今は応急処置をしている暇はない。


「走ろうっ!」


 キザムと真知奈は一目散に廊下を駆け出した。


 二人の背後からはハアーハアーという荒い息遣いと狂ったような唸り声が聞こえてくる。


 キザムは激しい運動が出来ない身体である。競争をするにはいささか分が悪すぎた。


 しかし、足を止めたら喰われてしまう。それだけは二人とも分かっていた。だから、足を止めないことだけを考えて駆け続けた。


「こっちよ! 早くこっちに逃げてきて!」


 不意に廊下の先から声が飛んできた。聞き覚えのある声の主は──。


「先生! 沙世理先生!」


 地獄に仏ならぬ、地獄に白衣の天使である。


「土岐野くん、急いでっ!」


 白衣姿の沙世理が教室のドアから廊下に半身を出して、こちらに向かって大きく手を振っている。


「あそこまで全力で走ろう!」


 キザムは隣の真知奈に声を掛けた。


「う、うん。分かった……」


 真知奈はだいぶ息が上がっていたが、視界に現われた救世主の姿を見て、少しだけ体力が持ち直したみたいだった。


 二人はほぼ同時に教室に滑り込んだ。そこは偶然にもキザムのクラスであった。


「急いでドアを閉めて、バリケードを作って!」


 沙世理の指示に従って、教室内にいた生徒たちがドアを素早く閉める。そして、バケツリレー方式で、ドアの前に机とイスで迅速にバリケードを築き上げていく。一分もしないうちに天井まで届くほどの即席のバリケードが出来上がっていた。


「二人とも大丈夫だった?」


 床に腰を降ろして肩で息をしている二人に、沙世理が心配げに声を掛けてきた。


「は、は、はい……。あたしは、大丈夫です……」


 真知奈の言葉に続いて、キザムも答えようとしたが、身体が急激にだるくなってきて言葉が発せなかった。


「土岐野くん? 土岐野くん? どうしたの? 体調が悪いの?」


 沙世理の目が患者を見る養護教諭の目に変わっていた。


「だ、だ、だい……じょ……」


 搾り出すようにして言葉を吐き出したが、最後まで続けられなかった。


 何だか身体が凄く重い。手を上げることすら出来ない。頭がクラクラする。視界がグルグル回ってまるで定まらない。沙世理の顔が何重にもぶれて見える。沙世理の声もくぐもって聞こえる。



 どうしたんだろう……? ぼくの身体に何が起きているんだ……? 薬を飲んだ後で、しっかり休息を取らなかったせいかな……?



 そう思っている間にも、キザムの体調はどんどん悪化していく。


 意識が正常に保てない。思考することも出来ない。身体に猛烈な寒気を感じる。さらにガタガタと身体が小刻みに震えだした。


「土岐野くん? 土岐野くん、しっかりして! 意識をちゃんと保って!」


 遠くから沙世理の呼ぶ声が聞こえる。でも返事は出来そうにない。口元すら動かせないほど、キザムの身体は言うことを利かなくなっていたのだ。


「ねえ、土岐野くん、どこか怪我をしていいない?」


「──そういえば……さっき、あいつらに右手を噛まれたみたいです……」


 真知奈も心配そうな表情でキザムのことを見つめてくる。


「右手? ちょっと土岐野くん、先生に右手を見せてくれる?」


 沙世理がキザムの右腕を掴んだ。身体を動かせないキザムは為すがままになっている。


「ちょっと……! この酷い傷はいったい何なの……?」


 沙世理の表情がさっと曇った。眉間に皺が寄り、険しい顔付きになる。


「とにかく、消毒だけでもした方がいいわね。──誰か急いで救急箱を持ってきてくれる?」


 沙世理の指示を聞いた男子生徒が救急箱を沙世理のもとに運んでくる。


「少し染みるかもしれないけど我慢してね」


 沙世理が消毒液をガーゼに染みこませる。



 さ、さ、沙世理先生……もう、ぼく……ダメ、みたいです……。もう、何も考えられない……。何も見えない……。何も聞こえない……。でも、お腹が……お腹が……なんだか、凄く空いているんです……。人が、死ぬときって……お腹が……空くものなのかな……? 死んでからも……お腹が空くなんて……なんだか、不思議だな……。



 キザムの意識はそこで途切れた。沙世理が応急手当を施す前に、キザムの意識は暗闇に落ちた。そして──。



 キザムの心臓はその動きを完全に止めた。



 傷口にガーゼを当てようとしていた沙世理だったが、キザムの状態に気が付いてその手を空中で止めた。すでに手遅れであると察したのである。



 しかし、次の瞬間、驚愕の事態が展開した。



 息を引き取ったはずのキザムの体がむくりと起き上がったかと思うと、沙世理の首元に喰らい付いていったのである──。

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