第十五話 引きこもりと『ふりだしにもどる』

「え?」


 俺は一人部屋でそう呟いた。

『秋洲さん、もういないから』

 夏南の言葉が脳内で反響する


 どういうことだ? いないってことは、つまり、もう帰って来ないってことか?

 こんなあっけなく? なんで?


 状況を理解できず、俺はただベッドの上で呆然としていた。あれほど言っても家に居座ったのに、このタイミングで?

 理由を考えても、思い当たる節はない。

 

 なんとなく信じられなくて、俺はのそのそとベッドから出た。夏南の冗談かもしれない。ともかく、お姉さんがいなくなったことに現実感がなかった。


 部屋を出ると、キッチンで夏南が料理をしているのが音で分かった。


 少しだけぼんやりとした頭で、俺はリビングを覗いた。

 お姉さんはいない。


 それからダイニングへ行っても、やはりお姉さんはいない。


 寝室にも、書斎にも、ベランダにも、玄関先にも、トイレと浴室にも……多分いない。


「本当にいない……」


 俺は呟いた。

 お姉さんが、いない。


 俺は急に不安になってキッチンに早足で向かった。


「夏南?」

「なに?」


 作業する背中に問いかけると、夏南からはやはりそっけない答えが返って来た。


「秋洲さん、ほんとにいないんだけど……」

「だから言ったでしょ、あの人ならもういないって」

「それってどういう……」


 夏南は一切振り向かなかった。どうせまた二人でじゃれ合って夏南が秋洲さんを外に追いやったのかと思っていたが、どうもそういう雰囲気でもない。


「……秋洲さんがタオル換えた後、きょーくんまた寝たでしょ?」


 歯切れの悪い様子で、夏南は説明を始める。料理の手は止めない。


「あの後、家に人が来て、秋洲さんを車に乗せてどっかにいっちゃった。それだけ」

「『それだけ』って……」


 感情を表に出さない夏南の言い方に、俺は満たされない気持ちで言葉を探した。


「誰が来たのさ」

「さあ?」

「誘拐とかじゃないのか」

「あの女だってそんなに抵抗しなかったし、多分違うでしょ。案外警察だったりして」

「じゃあ――」

「別にいいじゃん!」


 カンッ!


 とお玉を鍋に打ち付けると、夏南は強い口調でそう言った。俺はビクリと体を震わせる。


「最初から空き巣なんだよ? きょーくんが心配することなんてないでしょ?」


 そこで初めて、夏南は俺に顔を向けた。


 何かを押し殺すような、張り付けたような笑顔。


「きょーくんにはあたしがいるんだし。ちょっかい出してくる人がいなくなってよかったじゃん」

「おい、そんな言い方……」


 さすがに夏南の言い草に耐えかねて、俺の喉から険のある声が出た。


「それともなに? あたしよりあの女のほうがいいの? きょーくんには何もしてくれないよ? あんなのただおっぱいが大きいだけのポンコツじゃん」


 今思えば夏南の切羽詰まった声音から、俺は陰に隠れた感情を推して知るべきだったのだが、この時の馬鹿な俺は夏南の態度にヒートアップするばかりだった。


「夏南! さすがに言い過ぎだぞ……!」

「その点あたしは、きょーくんの好きなものはなんでも知ってるし、おばさんの料理だって作ってあげられるよ? きょーくんさえよければ、あたしは――」

「今はそんな場合じゃないだろッ!」


 思わず怒鳴ってから、夏南の呆気にとられたような目を見てから、俺は後悔した。

 しかし今更あふれ出る言葉を止めることもできないのも、また確かだった。


「人が一人連れ去られたんだぞ!? なんでそんな風にしていられんだよ!? なんで今そんなことが言えんだよ!?」


 そして、俺はここで取り返しのつかない一言を放った。


「自己中心的だよ」


 言ってから、とんでもないと思う。

 本当に自己中心的なのが誰なのか、少し考えればわかることだ。


「……ッ!」


 夏南の表情が歪む。

 怒りとも、悲しみともとれるその表情に、俺は冷水を頭からかぶったように青ざめた。


「い、いや今のは違――あづッ!?」


 料理中のお玉を投げつけられて、俺は床に尻もちをついた。

 目を開ければ、夏南が震えながら立っていた。目には涙が浮かんでいる。


「あたしはこんなにッ……! きょーくんのためにこんなに頑張ったのにッ……! それなのに出会ってたった五日の女を選ぶんだ……!?」


 嗚咽を漏らしながらそう言葉を放つ夏南に慌てて弁明しようと、俺は口をぱくぱくとさせた。


「そ、そんなわけじゃないって! でもまた夏南とこうしていられるのはお姉さんのおかげでもあって――へぶぅっ!?」


 思いきりみぞおちを踏まれて、俺は一撃でノックアウトされた。


「知らない! きょーくんのバカ! 熟女好き!」

「いやそれは語弊がある!!」


 俺の呼びかけも虚しく、夏南はそのまま家を飛び出していった。


 バタンッ!


 と大きな音が響くと、一瞬にして部屋には静寂が戻った。


 五日前まで家を満たしていた静寂だ。


 俺はただキッチンにうずくまり、取り返しのつかないミスにしばらく後悔して動けないでいた。



 こうして、俺はまたただの『引きこもり』に逆戻りした。

 

 

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