第十四話 空き巣と風邪っぴき
風邪をひきました。
着替えを用意せずに風呂に入り、お姉さんの侵攻を回避しながらなんとかバスタオル一枚で部屋に戻ったところまでは覚えているのだが、なぜかそこで記憶が途切れている。気が付いたら気絶してベッドの上に横になっていた。
なぜだろう……目覚めた俺を見守る夏南の目がやけに優しかった気がする……
「ゲホッゴホッ……」
体がだるい……頭も痛い……
部屋のデジタル時計を見る。
十二月二十一日だ。
お姉さんが家に侵入してから五日間……あまりにも濃厚で胃に悪い日々だった。
引きこもって鬱屈としたいた日常から抜け出そうとした矢先にこれだ。締まらないことこの上ない。
それにしても家の中は随分と静かだった。二人が来てからあれほど騒がしいと感じていたのに、今は水を打ったかのような沈黙が部屋を支配している。もしかして二人とも帰ってしまったのだろうか。
……別にずっといてほしいなんて思わないし、常々さっさといなくなってほしいと思ってたけど、なにか一言あってもいいじゃないか。
そんなことを考えていると――
コンコン……
と部屋のドアをノックする音がして、ほどなくして扉が開いた。お姉さんだった。
「具合はどうかしら?」
盥を抱えてベッドの傍まで来て、彼女は俺と視線を合わせるように膝立ちになった。
「最悪です……」
「そう、大変ね。あの子はちゃんとお仕置きしておいたから」
あの子? 夏南のことだろうか。
「『反省はしてるけど後悔はしてない』そうよ」
「?」
まあいいや。
「タオル換えてあげるわ」
そう言いながらお姉さんが俺の額に乗ったタオルと盥に入っていたタオルを交換してくれた。
額が冷却されて気持ちがいい。頭にかかっていた靄が晴れたような気分だった。
「なにかしてほしいことはあるかしら」
俺の顔にかかった髪を手で撫でつけながらお姉さんはそう聞いた。
お姉さんの指もひんやりしていた。
「い、いや……別に……」
「特に要望がないようならスク水を着てもらうわよ」
「汗! 汗拭いてほしいです!!」
「はいはい……本当、素直じゃないわねえ」
呆れたようにお姉さんは俺の体を起こした。
ぐっ……いいようにいいくるめられてしまった……
「上、脱ぎなさいな」
久しぶりに『お姉さん』なお姉さんにどぎまぎしながら、俺は部屋着の上を脱いで上半身を露わにした。確かに、じっとりと汗をかいていた。
「鏡太君はもうちょっとわがままになりなさい」
絞ったタオルで俺の背中を拭きながら、お姉さんはそう言った。
俺はただぼーっとしながら、茹だった頭でそれを耳に入れている。
「わがまま……」
「そうよ」
お姉さんの手つきは優しかった。撫でるようにして何度も俺の背中を拭う。
「よく言えば優しいのよ。でもそれは他人にとっては美徳であっても、鏡太君自身にとってはそうではないときもあるでしょ」
「よくわかんないです……」
「身に染みて分かってるはずよ」
お姉さんは一瞬、俺の体を拭く手を止めた。
「私、そういう人間が嫌いなの」
『嫌いなの』
そんなお姉さんの言葉の上っ面だけをとって、俺は不安になった。
嫌い……
「やさしくて、他人の好意は受け取りたがらなくて、そのくせ悪意には敏感で真に受けて、そして誰にも助けを求めずに一人で沈んでいく」
誰に言ってるんだろう……
熱で現実感を失った俺はぼんやりとお姉さんの声を聞いていた。
なんとなく、お姉さんの言葉は俺に向けられたものではない気がする。
「そんなのって、馬鹿みたいじゃない。私は私だけのものよ。好意も悪意も、私が欲しい分だけいただくの」
遠くから聞こえてくるお姉さんの声は、決して俺を拒絶するものではない。
「それ、いいなあ」
「そうでしょ」
俺のうわごとに得意げにそう答えて、お姉さんは再びタオルを動かし始めた。
「自分で決めて、自分で生きて、それでやっと他人と一緒に生きられる資格を得るのよ――はい、前は自分で拭ける?」
「うん」
子供のようにそう答えて、俺はタオルを受け取った。少し震える手で胸や脇の下を拭く。
「がんばりなさい、少年」
お姉さんはそう言って、それからしばらくして、盥とタオルを抱えて部屋を出た。
★
よく同じ夢を見る。
知らない町に立っていて、少し離れたところに父さんと母さんが立っていてこちらを見ている。
まったく知らない町だから一人じゃ心細くて、俺は二人に近付こうとする。
父さんも母さんもやけに悲しげな顔をしているから不安になって、それでも近づいていくと、触れるか触れないかのところでフッと二人とも消えてしまう。
雑踏の中、辺りを見回すとまた遠くの方に二人が立っているのが見える。
俺がそこに近付くと、二人はまた消えてしまう。
見回すと、また遠くに二人の姿がある。
追いかけると、消えてしまう。
見える、追いかける、
消える。
気が付いたら何も知らない土地で俺はただ一人で立ち尽くしていて、やがて周りを歩く人も各々家に入っていき、俺だけが誰も知らない町の真ん中に取り残される。
いつも夢はそこで終わる。
今日も同じ夢を見た。
やっぱり父さんにも母さんにも追いつけなくて、俺は一人で町の真ん中に立っていた。
見慣れたものは一つもない。一人ぼっちだった。
「少年」
そんな声が突然響いて、俺は夢の中で振り向いた。
「こんな夜更けになにしてるのかしら?」
お姉さんだった。なぜかバニースーツだった。
ぽつりと灯された街灯の下に、スポットライトに照らされるように立っている。
「なにもしてないんです」
「なにもってことはないでしょう」
「なにもしてないんです。ただ、父さんと母さんを追いかけてて」
「それじゃあ確かになにもしてないわね」
だって、
とバニー姿のお姉さんは言葉を続けた。
「だって、もうお父さんもお母さんもいないのよ」
そうか。
俺はその言葉に怒るでもなく悲しむでもなく、ただ全身から力が抜けるような気がしてその場に立ち尽くした。
いないんだ。
もう、父さんも、母さんもいない。
「死んだんだ」
「そう、二度と会えないわ」
俺はただただその場に立っていた。もう追いかけるものもない。じゃあ次はどうしたらいいんだろう。
「ここにいるのは、少年と、それから私だけ」
気が付けば、お姉さんがすぐ目の前に立っていた。根拠のない自信に満ちた表情で俺の頭を撫でている。
「それで充分だと思わないかしら」
「それは――」
「えいっ」
言い淀んでいると、急にお姉さんは俺の手を取った。
そして――
跳んだ。
そう、それこそバニーみたいに、真っ黒なバニースーツのお姉さんは俺の手を掴んだままジャンプした。
俺たちは恐ろしい速度で飛び上がり、街灯を越え、家を越え、ビルを越え、雲を抜け、そして月が目の前に現れた。
「どう? すごいでしょ」
俺の方に顔を向けて、お姉さんは笑った。目には巨大で黄金色の月が映っている。
「でも、お姉さんがいないとこんなに飛べない」
「自分で決めるのよ。跳ぶのか、跳ばないのか」
確かな口調で、真剣な眼差しでそう言うと、お姉さんは急に相貌を崩した。
「だから、あとは自分でなんとかしてみなさい」
笑顔で、お姉さんは、
俺の手を離した。
「え」
えぇぇぇぇええええええええええええええええええ!!??!?!?!?!?
真っ逆さまに落ちて行って、月もお姉さんも遠ざかっていった。
金色の月を背景に、まだまだ跳んでいく黒いバニースーツ。
再び雲を突き抜けると、お姉さんの姿が雲に隠れて見えなくなった。
なんとかしないと、地面に激突してしまう。
落ちていく自分の体を見下ろすと、メイド服になったりブーメランパンツになったりしていた。そしてスク水になり、それから部屋着になり――
「どふっ!?」
ベッドに叩きつけられた気がして、俺は飛び起きた。
部屋だ。部屋着でベッドの上にいる。
「夢か……」
息を荒げていると、随分と自分の意識がクリアになっているのが分かった。
熱も少し下がったようだった。
静かな部屋だ。時計を見るともう夕方だった。
コンコン……
再び扉がノックされると、誰かが入って来た。
「お、お姉さ――」
「きょーくん」
違う、夏南だ。なんだか神妙な顔をしている。
「熱はどう?」
「ちょっと下がったよ」
「それはよかった……」
落ち着かない足取りでベッドのそばまで来ると、夏南はおずおずと俺に尋ねた。
「晩御飯、なにがいい? おかゆとか作ろうと思ってるんだけど」
「い、いいの? 食べたいな」
「もちろん」
なんとなく歯切れが悪く感じて、俺は夏南の顔をじっと見つめた。なにか不安でもあるのだろうか。
「じゃあ、できたら呼ぶね」
そんな俺の思いとは別に、夏南は部屋から出ようと俺に背を向けた。
ドアを開けて部屋を出る間際、夏南はそっけなさを装った声で、
「そういえば、秋洲さん、もういないから」
と、そう言った。
バタン。とドアが閉められて。俺は独り部屋に取り残された。
「え?」
俺の素っ頓狂な声だけが暗い部屋にこだました。
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