ワン・サイド・コミュニケーション・ワンモア


歩き始めてからひとつ、翠海には気付いたことがあった。



先程は座っていたためなんとも思わなかった。しかしこうして後から付いて歩くとよく分かる、彼はかなり背が高い。百八十近いんじゃないだろうか。こんなに高いのなら存在感がありそうなものなのに、どうして目立たないんだろう。翠海は不思議そうに首を傾げた。


翠海が彼の新たな謎に思いを馳せていると、なぜかどんどん千見の背中が小さくなってゆく。とはいえ別に千見が縮んだ訳ではなく、距離が離れていってしまっていたのだ。お互いの身長差による歩幅の違いのせいである。


それにしても、ついて来いと言っておきながら(言ってないけど)女子に歩く速度も合わせず一人でずんずんと行ってしまうとは。翠海は少し憤りを感じたが、まぁ気遣いのできる人ばかりじゃないもんねと心を落ち着かせた。翠海は幼い見た目に反して精神年齢はそれなりに高いのだ。小走りで彼の背中を追いかける。


翠海が千見に追い付くのに、そう時間はかからなかった。千見が突っ立っていたからである。「もう、歩くの早いよ」と翠海が不満げに言うと、千見は申し訳なさそうに頭を下げた。謝られては仕方ない、翠海は「良いよ」と快く彼を許してあげた。


それから歩き出した彼のスピードは、先程と比べると明らかに遅くなっていた。













五分以上は歩いたのではないだろうか。校舎を抜けて渡り廊下を歩き、階段を二回登って廊下の奥の教室の前。そこで千見の足は止まった。


(ど、どうしよう………………)


翠海は後悔していた。『学年一位』という肩書きに惑わされ、それ以前に千見が男子であることを忘れていた。いくら彼が卓越した頭脳を持っていようとも、理性を捨てて狼と化してしまえばそんなもの関係ない。圧倒的な体格差から自分はあっという間に組み伏せられ、哀れな獲物にされてしまうだろう。そうなる前にさっさと去るべきだ。……まぁ、ここまで着いてきてしまった時点でもう手遅れかもしれないが。


だが彼が純粋な善意で動いてくれているのだとしたら、その行為は明確な裏切りだ。きっと彼はすごく傷付いてしまうだろう。


(こんなのどうすればいいの!?あぁもう、こんなことなら凪咲ちゃんに着いてきてもらうんだったなぁ………)


コロコロと表情を変え、頭を抱えたり手を顎に添えて唸ったりと大忙しの翠海をよそに、千見は慣れた手つきで鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。そのまま捻ると同時にカチャリと小気味よい音がした。ドアがギギィと音を立てて開かれる。


「………………………入って」


「う、うん………………あれ?」


(千見くん今、しゃべったような……?)


困惑しつつ、彼に続いて部屋に入る。そしてまた後悔した。男子と二人きりで教室に入ってしまった。今の自分は狼と同じオリに入れられた羊、これじゃあもう簡単には逃げられない。翠海は押しに弱く流されやすい己の性格を呪った。


(どうか、千見くんが良い人でありますように)


翠海は小さく手を合わせると、あたりをきょろきょろと見回す。教室の中央には小さなサイドテーブル、その周りに椅子がいくつか置いてあるだけで、それ以外には何も無い。普段生活している教室と同程度の広さなのに、ここまで物が少ないのは異常だ。何よりとても落ち着かない。


(えーと……とりあえず、千見くんに『座っていいかな?』って聞こう。椅子はドアの近くのやつ……もしもの時、すぐ逃げられるように)


翠海は緊張感でごくりと喉を鳴らし、口を開こうとして────


────それは堰を切ったように喋り出した彼によって遮られてしまう。


「まぁまぁ、所在なさげに立ってないで、まずは座りなよ。それとも伊瀬谷さんは立ちながら勉強するのか?だとしたらやめた方がいいと思うな。いや、人の趣味趣向を否定するつもりは無いんだけれどね、立ちながら勉強ってのは流石にちょっと非常識かなって。おっと失礼、想像で話を進めてしまうのは俺の悪癖だな。ごめん、気にしないで座ってくれ」


「……」


「ん?どうしたんだ、そんな鳩が豆鉄砲喰らったような顔して。……あぁ、俺がこんなペラペラ話してるのに驚いてるのか。情けない話なんだが、俺は極度のコミュ障でね。この部室以外じゃまともに声も出せないんだよ。さっき伊瀬谷さんと話した時みたいに、せいぜい頷くくらいが関の山なのさ。ごめんな、全く喋らないコミュ障の相手なんかさせちゃって。疲れたろ?でも大丈夫、俺はこの部室内なら例え伊瀬谷さんのような可憐な女子が相手だろうと自由自在に会話できるんだ、ちょうど今のようにね。ああでも、普段全く喋れない反動から今すごく饒舌になってるかもしれないな。鬱陶しかったらごめんな」


「………………………………座りますね」


「うん、それがいい。で、勉強だったか?どの教科が分からないんだ?大丈夫、俺はこう見えてそれなりに勉強が出来るんだ。きっと伊瀬谷さんの力になれると思うよ」


「数学です」


「なるほど数学か、どの辺でつまづいた?……あぁここか、確かにここはややこしいね。でも心配しないでくれ、見方を変えれば簡単に解けちゃうんだ。例えばこの問題はこの公式を使ってだな……ん?ちょっと待ってくれ、なぜ敬語なんだ?何か悪いことでもしてしまったかな?」


「いえ、お気になさらず。どうぞ続けて教えてください、千見さん」


「千見さん!?それにその乾いた笑顔はなんだ!?やっぱり俺はなにか悪いことをしたんだろう、なぁそうなんだろう!?」


千見という少年は、幸いにも悪い人ではなかった。むしろ、たぶんどちらかというと良い人だろう。


ついでに言うと、やばい人でもあったけれど。

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