第21話 喪失
脳髄に、ピリッと電流が走った。その刺激によって、私は徐々に意識を取り戻していく。
「っ! ……なにっ?」
地面が固い。少なくとも、私の部屋のベッドはこんなに硬くはないはずだ。ふいに嗅いだ土の匂い。唾を飲み込むと、ジャリッという音と感触を感じ、私は慌てて立ち上がろうとする。
「いっつぅ~……」
全身を激痛が走る。傷こそないものの、士気向上による肉体内部への副作用は未だ治まってはいない。
「ここは……どこなのよ?!」
少なくとも開けた場所であり、私とジョシュアがやり合っていた地点ではない。苛立ち混じりに周囲を見渡す。その景色に、私は見覚えがあった。
「なんで……」
そこは、リヴァリア北側の平原地帯だった。私は視界を前方に向けて、さらに目を見開く。
「なっ!」
衝撃という言葉では、言い切れない。
「なによ!? あれ!」
私の目の前には、ズラリとリヴァリア守備隊が展開していた。それを取り囲むようにリヴァリア本体が、そしてその背後には――。
「……私を……裏切るの?」
私の私兵と、お父様、お兄様の姿があった。どういった意図を持っているかは明白だ。彼らの顔を見れば一目で分かる。鋭い目で私に殺意を向けていた。お父様達以外の、リヴァリアの兵隊達も、皆だ。例外は私兵だけ。私兵は複雑そうに、目を伏せている。
そんな私兵達をまるで庇うように、ゼペルお兄様が前に出た。私を冷たく一瞥すると、視線と同じく温度のない声色で静かに言った。
「賢いお前の事だ。……今がどういう状況かは、察しがついているだろう? アーシア」
「お兄様っ……」
いつか、こうなる日が来るという予感はしていた。それくらい、ゼペルお兄様は私を煙たがっていた。でも、私は家族を大切にする人間だ。この私と同じ血が流れている特別な人達。私は争わずに解決しようとして対策をって……あれ? 私はどんな対策をしていたっんだっけ?
「っ!」
私は頭を振る。おかしい。何か頭に靄がかかっているような不快感がある。私は一歩前に踏み出そうとして――。
「うっ! いぁ~~~~っ!?」
全身に走る落雷を浴びたかのような衝撃に、膝のみならず、両手を地面についてしまう。
「い、いいぃっ! っぅ~~~~!!」
そのままの体勢で、私は無様に身悶えた。それでも、懸命に声だけは堪える。
「本当にっ……どうなって……っ」
明らかに異常だった。頭の靄もそうだが、身体の負担もである。過去に、これほどの副作用を経験したことはない。激痛があっても、限度があり、日常生活はなんとか送れるレベルだったはずだ。『狂歌』のかかりが強かったのだろうか。確かめるために私はシュリエルの名を呼んだ。
しかし――。
「シュリエル? ……シュリエル! シュリエル!! 返事くらいしなさいよ!」
何度、どれだけ大きな声で呼んでも、シュリエルは反応しない。契約者同士の繋がりからは、なんとなく近くにいるという反応があるにも関わらず……だ。
……クスクスクス。
そんな私を嘲笑うかのように、どこからともなく押し殺した笑い声が私の耳朶を打った。カッと頭の中が燃え上がる。
声が上がった方向を睨み付けると、そこにはリヴァリア本隊の姿があった。守備隊や私兵と比べると、本隊は私と関わってきた時間が相対的に少ない。それだけ私に対する恐怖が欠けている証拠であった。守備隊や私兵の面々も、笑い声の上がった方を厳しい表情で窘めるように見る。
ピタリと笑い声が止まった。
しかし、私の怒りは収まらない。
術式を展開しようと、私は魔力を漲らせる。全身を巡回する魔力が形を成そうとする刹那。
「うっいっ! あああああっ!」
またしても体中を襲う激痛に、集中を乱されてしまう。せっかく形成した術式は、跡形もなく消し飛んだ。それだけに飽き足らず、ついに私は悲鳴を上げてしまった。
そんな私を見て、
クスクスクス……。
さっきよりも大きくなった嘲笑が辺りに響いた。
「なんでよっ! どうしてよっ!」
私は最強なのだ。世界に並ぶ者などいないのだ。そのはずなのに、どうして今、私はこうして地を這っているのかが理解できない。この程度のダメージ、いつもなら笑い飛ばせるはずなのに、私からは涙が溢れるだけで、魔術の一つも操れそうになかった。
「無様だな……アーシアよ」
高見から私を見下ろす一つの影。悪魔のような雰囲気を漂わせ、左目を眼帯で覆った……まるで骸骨を思わせるほどにやせ細った老人。
「お前もか!? ブルータス!」
私の側につくと誓ったはずの裏切り者ブルータス。
幽霊のように影から現れ、哀れむように私を見るその顔に、私はついついそんな言を漏らしてしまう。
「ふ、ふふふ……」
そして、微笑を零した。
「……なにを笑っている?」
そんな私の激しすぎる感情の移り変わりを理解できないのか、ブルータスは微量の困惑を浮かべた。
「これが笑わずにいられますかって話よ……」
私はまるで、カエサルにでもなった気分だ。独裁色を強め、老害共にカエサルは暗殺された。私もまた、天才すぎるがゆえに、迫害を受けている真っ最中である。私程に国を憂い、民のことを愛している人間はいないというのに……。
「はぁ……」
ひとしきり笑って、心に余裕を作る。
どんな状況でも、余裕を持つべし。苦しむ顔を見せた所で、相手は喜ぶだけである。ピンチの時こそ笑うのだ。その笑みが万分の一の確立で勝機に繋がることもある。
そう……勝機だ。
正直な所、私は非常にピンチだ。私は天才にして最強だが、それでもまだ個人で国をどうこうできるレベルにはない。
だが、どういう訳か私はまだ生きている。想像するに、根本でお父様やお兄様は甘いのだ。私を殺すチャンスが山ほどあったにも関わらず、こうして生かしている。察するに、私を殺さずに、国外追放処分程度で済まそうとしているのだろう。
……その甘さ、いつか万倍にして返してやる!
そう思うと、心が震えた。
しかし――。
「主様……」
その子供の頃から見知った、ある意味で誰よりもお互いを理解している顔がブルータスの背後から覗くと、私の表情が凍り付いた。
それは、こんな状況に陥っていても、裏切られたと僅かも思わなかった人物。 ――いや、正確には人ではない。
私が見紛うはずもない。艶のある輝く銀髪に、勝ち気さと貞淑さが絶妙の塩梅で調和している顔。母性を思わせる豊満なプロポーション。それらはすべて、女神シュリエルの姿そのままであった。
そして私の契約者としての繋がりも、あの女こそがシュリエルだと、私に告げている。私とシュリエルの目が合い、その繋がりが唐突に途絶えるまでは。
「っ!?」
私は戦慄する。
私の中で当たり前に存在していた女神契約の恩恵である『千里眼』やその他の補助魔力が身体から抜けていく感覚があったからだ。
「……う、そ……」
今度こそ、私は完全に脱力する。笑みも浮かべられずに、呆然とブルータスとシュリエルを見上げた。
「「…………」」
二人は揃って表情がなく、冷然と私を見下ろしている。そのあまりに変わらぬいつもの姿に、私はこれが現実であると何よりも深く思い知った。
「悪いの……アーシアよ。我の本当の契約者は主様なのじゃ」
そう言いながら、シュリエルはブルータスの前に跪く。ブルータスはまるでペットにそうするかのように無表情でシュリエルの頭や頬を撫でた。その様は酷く不気味で不器用ではあったものの、私とシュリエルの関係よりかは健全ではあるのかもしれない。
「シュリエルには、俺の命で貴様と仮契約を結ばせていた」
シュリエルを撫でながら、ブルータスは静かに口を開いた。
「少なくとも、俺が貴様を評価していたのは本心だ。ゆえに、シュリエルを貸し与えた。そして――」
ブルータスはそこで一旦口籠もった。シュリエルを撫でる手を止め、何事か思案している様子だ。私の頭の中は真っ白で、何かを考えられる状態ではなかった。何故、私がこんなにもショックを受けているのか、自分でも理解ができない。
「シュリエルを通して貴様を見ていた。……いつか大人になってくれれば、いつか大切な事に気づいてくれれば……そんな『いつか』を馬鹿な俺は国がこんなになるまで捨てきれなかった。…………愛していたよ、アーシア。お前を我が子のように思っていた」
今の私に一つだけ分かること。それは世界でただ一人、過去の私にとってはシュリエルだけが気に入らない女であったこと。それは、シュリエルの心が見えないことが起因していた。他の誰もが私の前では丸裸なのに、シュリエルだけが私にとっての他人だった。
まさか、この私が――たった一人の他人であるシュリエルを愛していたとでもいうのだろうか?
きっとそれは、馬鹿らしい感傷であり、錯覚だ。そう確信を得つつも、私の頬を涙が伝っている。
ブルータスはシュリエルを通して私を見ていたと言った。それはつまり、ブルータスも私にとって第二の他人であったという事だ。自然と頬を熱い滴が伝う。
「鬼と呼ばれる貴様も……涙を流すのだな」
ブルータスは私の顔を見て、僅かに目を伏せた。
「貴様の処遇をどうするべきか、ずっと悩んでいた。殺すべきか、生かすべきか……。情けないことだが、俺もこの国に染まってしまったようだ。……貴様――アーシアを生かしたいと思うとはな……」
ブルータスがほんの一瞬だけ表情を和らげるのが見えた。たぶん、私のいる場所からしか目視できなかったであろう笑み。私がブルータスの皮肉以外での笑みを見たのは初めての経験だった。
「その涙を見て決心した。アーシアよ……貴様を生かそう」
その言葉に、リヴァリア軍がざわついた。私が復讐に来た場合の事を想像しているのだろう。無理もない。実際に戦うのは彼らなのだから。
もちろん、それを察することのできないブルータスではない。
「もちろん、制限はある。これから先、二度とリヴァリア及びその同盟国には近づかぬと誓え。俺にはシュリエルの千里眼がある。それがどういう意味かは貴様が誰よりも分かっているはずだ。……もし、この禁を破った暁には、命はないものと思え」
それは私にとって、とてもではないが承服できかねる条件だった。リヴァリアやその近辺の同盟国家は治安が安定している場所が多い。しかし少し足を伸ばすと、当たり前のように内乱や戦争で荒れた国々が点在している。
無論、生活環境は格段に落ちることをそれは意味していた。
「…………」
私は身体に魔力を巡回させてみる。反応は微々たるもので、たとえ万全の状態であったとしても、シュリエルの加護がない以上、以前のような規格外の魔術を乱発することは難しい。
そして、それを悟られている。恐らくは、リヴァリア軍やその関係者達にほとんどに。
私は肩の力を抜いて言った。
「……約束するわ」
何よりも、命が大事だ。
他のどんなものに代わりはあっても、命の代わりは存在しない。時には妥協も必要であった。生き延びるため、その先のために。
「……諦めが悪いのぉ……哀れな子じゃ……」
シュリエルが呟いた。
当然のように、私の胸中は千里眼で覗かれている。このまま大人しくするなど奴らも思っていないのだろう。それでも逃がすのは、本当に私が改心すると思っているからか、どんな状況になっても私に負けない自信があるからなのか。
「……よかろう。その言葉、努々忘れるなよ」
ブルータスはそう言うと、背後に向かってなんらかの指示を出す。守備隊の間を割って、兵士がせっせと運んできたのはジョシュア・セルゲイノフであった。まだ生きているだけで驚きだが、傷の処置を受けたらしいジョシュアは意識すらあった。
「……やぁ。また会ったね」
弱々しく言うジョシュア。私は説明を求めるように、ブルータスを見上げた。
「そいつを連れて行け。そいつも大概非常識だが、貴様よりはマシだろう」
私は改めてジョシュアを見る。
「あんた……グルだったわけ?」
ジョシュアが生かされている意味はそれ以外に考えられない。すべては仕組まれていた事だったのだろうか。
「……別にグルだった訳じゃない。かといって無関係でもないけどね。お互いに利用しようとして、僕がしてやられただけさ。彼らは君を消耗させるために、対抗できる人間を探していたのさ。それがたまたま僕に白羽の矢がたっただけ」
事も無げにジョシュアは言った。
「……最後に聞きたいことはあるか?」
ブルータスは傲然と私を見下ろす。ブルータスは冗談を言わない。きっと、これが最後の言葉になるだろう。
私はずっと気になっていた事を問うてみることにした。
「ミ、ミリーは……?」
声が震えた。
知りたい。だけど、知りたくない。飼い犬に手を噛まれる痛みは、ここ数分で痛いほどに味わった。ミリーは私に依存していた。私がいなければ、生きてはいけないはずだ。
だが、
「ああ、ミリーならここにいるよ」
以外にも、それはゼペルお兄様の声だった。お兄様に抱きかかえられるようにして、顔を伏せたミリーが私の前に出てくる。
「ミリー……」
見上げる私に、ミリーは――。
「申し訳ありませんでした」
消え入りそうな声で頭を下げると、その場から駆け出してしまう。
「…………」
その謝罪の意味は、明かだ。ミリーも、私を裏切っていた。世界が崩れ落ちていく。
駆けだしたミリーの背中をゼペルお兄様が心配そうに眺めている。まるで恋人同士のように。ゼペルお兄様は呆然とする私に気付くと、朗々と語ってみせる。
「アーシアがミリーに信頼を寄せていることは知っていた。『千里眼』でミリーの心だけは頑なに覗かないようにしていることも。だからアーシアに嘘情報を流すのは容易かった。ミリーの口から告げさせればよいだけだからな」
「……嘘?」
私の脳裏を閃光のような閃きが駆け巡る。
「……リウリス軍残党……」
ゼペルお兄様が破顔する。妹である私への悪意に満ちた表情だった。
「そうだ。いくら千里眼で覗こうとしても見えなかっただろう? それはそうさ。最初からリウリスの残党など存在していなかったんだから」
私はミリーの言葉だからというだけで、それはあっさりと信じ込んだ。リウリスにそんな余裕などあるはずがないと思いつつ、ミリーの言葉を当然のように受け止めていた。
「は、ははははっ」
笑いが漏れる。自分自身が馬鹿みたいだった。掌の上で踊らされていたのは、私だったのだ。信じていた人間にすら裏切られ、手に残ったのは命と、ジョシュアとかいう変態だけ。
「は、ははは……ははははっ……っぅっ……」
本当に、笑い話にしすらならない。まるで道化のようだ。そのくせ世界最強だなんだと自惚れて……本当に馬鹿みたい……。
「ふんっ!」
涙を流す私に、ゼペルお兄様は汚物でも見るかのような視線を投げかけて、
「僕にアーシアなどという妹はいない! 目障りだ。すぐに消え失せよ!」
そう告げた。
私はむせび泣きながら、ジョシュアに身体を支えられ、リヴァリアを後にした。惨めにすべてを失ったまま、復讐すら頭に思い浮かべることもない。
完全なる敗北。
私はそれを噛みしめて、さらに泣いた。
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