第四章 掌の上
第20話 謎の女
私はお腹を優しく撫でた。そこには、新しい命が宿っている。きっかけは、ちょっとした体調不良だった。
私は元々、良好とは言い難い環境で生活しているためか、生理が遅れたりすることは日常茶飯事だった。だから、生理が遅れたり、少し熱っぽかったり、眠気やだるさがあっても、深くは考えてはいなかった。当然、夫であるブレンナーさんと、そういった事はしていた訳だけど、私にとって、妊娠はそれほど現実味のある事態ではなかった。
過去の仕事の都合上、危機感を常に持ってしかるべきだったのだろうけど、運が良いのか悪いのか、私には無縁の心配であり、周囲の仲間が妊娠しても、大変だなと、どこか他人事のように考えてもいた。
だから、ジョセフィーヌさんかかり付けの医師に相談して、『妊娠』という可能性を聞かされた瞬間、私は酷く驚いてしまった。
あれから一月、生理の出血は止まったままだ。さすがに私も覚悟を決めていた。
そんな私だけど、妊娠の結果、私にはとても嬉しい変化が起こっていた。一時期、私を避けていたジョセフィーヌさんが、優しくなったことだ。私に迷惑をかけまいと、無理して気丈に振る舞っていたジョセフィーヌさんだったけど、私の妊娠を報告すると、すごく祝福してくれて、あれやこれやと世話を焼いてくれる。病気のジョセフィーヌさんに無理をさせるのは心苦しいけれど、病気の苦しさを忘れたように私のお腹を撫でるジョセフィーヌさんを拒むことなんて、できるはずもない。
子供の父親であるブレンナーさんも、もちろん大喜びしてくれた。
正直、私はブレンナーさんの妻になった今でも、いつ捨てられるか、不安で仕方がなかった。それに、子供の父親がブレンナーさんだと信じてくれなかったら……という一抹の心配もあった。
だけど、ブレンナーさんはそんな私の心配は杞憂だと吹き飛ばすくらいに喜んでくれた。その姿を見ていると、私は彼の子供を妊娠できて良かったと、素直にそう思えた。
すべてが順調に推移していた。
昏く淀んでいた日常が俄に輝きだし、未来に対しての希望に満ちていた。
あぁ、私は――なんて馬鹿なのだろうか。
そんな都合良く世界が回るなら、私達は戦争になど参加していない。上手くいかない世界に身を置いているからこそ、血を流して戦っているのだ。そんな当たり前の事を私は忘れていた。いや、きっと見ないようにしていたのだ。
私がアーシア・ミーナ・リヴァリアの敵となったという現実から……。
親しく言葉を交わした人達が命を賭けて戦っている現実から……。
「ブレンナーさん?」
私は集会所のドアを開けた。しかし、そこにいつもの活気はなく、ガランと空虚な雰囲気を漂わせていた。それ自体は別に不思議ではない。集会所は今、一時的に機能を停止している。集会所だけでなく、革命軍決起の影響を避けるために、セフィエド地区の多くの住民は、ブレンナーさんの勧めでそれぞれ別の近隣の街に避難しているからだ。セフィエド地区は革命軍の拠点であり、最も危険な場所であるから、ブレンナーさんは当然の配慮だと語っていた。きっと、働き先や住処も、手配しているのだろう。
「……?」
私は機械式時計で時刻を確認する。
秒針は午前九時を指し示していた。
「おかしい……な」
私が不思議に思っていたのは、ブレンナーさんの迎えがなかった事だった。ブレンナーさんと結婚してからというもの、集会所は私の第二の家と言っても差し支えのない場所だった。何分ブレンナーさんは多忙であり、会う場所といえばいつもここだ。私が妊娠する前から、集会所に来る際にはブレンナーさんが玄関で迎えてくれていた。
「個室に……いるのかな?」
不思議に思いつつも、私はブレンナーさんの個室に足を伸ばす。まだ寝ているのかもしれないし、迎えに飽きてしまったのかもしれない。
そもそも、私なんかがブレンナーさんにお迎えしてもらう方が間違いだったのだ。そう思いつつも、私は少しだけ落胆していた。ブレンナーさんは私の顔を見ると、いつも嬉しそうに微笑んで抱きしめてくれた。愛されてる気がして、私はあの時間が好きだったのだと自覚する。
「でも、仕方ない……よね?」
そう。仕方がない。
ブレンナーさんは忙しい方なのだ。特に今は革命軍が出陣して、大変な時期。私の我が儘で、ブレンナーさんの手を煩わせるわけにはいかない。
私は納得し、ブレンナーさんの個室のノブに手をかけた。回して、ゆっくりと開ける。
その私の視界に、一面の朱が咲き誇った。
「……え?」
目の錯覚かと思うほどに、その部屋は真っ赤だった。
朱、朱、朱。
気味が悪いほどに鮮やかな、一色だけの世界。
その中心に、ブレンナーさんがいた。
「ブ、ブレンナー……さん?」
知らず知らず、声が震える。
その震えが恐怖から来ているのか、緊張から来ているのか、私自身判別できない。ただ、心臓が大きく脈打ち、全身から嫌な汗が流れた。世界がグラグラと揺れる。
「あら、ルミナちゃん?」
その第三者の声に、ハっと私は我に返った。
「ルシアナさん……」
亜麻色の髪に、見る者全てを癒やしてしまいそうな柔和な顔立ち。右半分を仮面で覆ってもなお、その品の良さが滲み出ている。ルシアナさんはこの状況でも何も変わらず、そこにいた。
「……ど、どうなってるん、ですか?」
ようやく私の口をついて出た言葉は明らかに力というものが欠如していた。ブレンナーさんに駆け寄るべきなんだろうけど、混乱した頭はそこに立ち止まることを選択していた。この部屋を包む血臭とその出所がブレンナーさんだと確定させたくなかっただけかもしれない。とにかく、私は平静そうなルシアナさんに問いを投げかけた。「なんでもないのよ」そう言ってくれるのを期待して。
「ブレンナーさんは……あの、その、……これは、どうなってるんですか?」
ルシアナさんは「ふふふ」と口元を手で覆って上品に笑った。つられて私も笑う。引き攣った笑み。
ルシアナさんは後ろ手に隠していた手を私に差し出す。まるで、握手を求めるように。しかし、それで私は完全に硬直してしまう。
「そ、それ……?」
ルシアナさんの隠していた手に握られていたのは、部屋と同じくらいに真っ赤に染まったナイフだったから。
ルシアナさんは私の反応を楽しげに眺めながら、口を開く。
「これでね。ブレンナーさんの胸を一突き。……スマートにそうしたかったんだけどね。ブレンナーさんの体型ってああでしょ? ブレンナーさんも抵抗するものだから、派手に血が飛び散っちゃって」
たおやかな空気を醸しながら、ルシアナさんはそんな物騒な事を言う。私は息をするのも忘れて、立ち尽くす。そして、ゆっくりとその意味するところを吟味し、
「い、いやああああああああっ!」
悲鳴を上げてブレンナーさんに駆け寄った。
「ブレンナーさん! ブレンナーさんっ!」
ブレンナーさんの身体は酷く冷たい。赤みの強かった肌は真っ青で、とても同一人物には見えなかった。傍によるだけで、私の全身が血で汚れた。ブレンナーさんの全身は傷がない部位を探すのが困難なくらいに、傷だらけにされていた。
「ブレンナーさんっ!!」
私はブレンナーさんの事を男性として愛していたのだろうか。人として恩はあった。結婚も嫌じゃなかった。でも、果たして私は彼に恋心を抱いていたのだろうか。それを全身全霊で肯定するかのように、涙は溢れて止まらなかった。
「いやだっ! 死なないでぇ……。ブレンナーさんっ! ブレンナーさん!」
そんな私達を微笑みと共に見下ろす二つの瞳。それを私はきっと彼女を睨み付ける。
「よくもっ!」
恨み言。意識するより早く、私の口をついて出た。胸の中を黒い感情が埋め尽くしていく。そして、次いで疑問。どうしてルシアナさんがこんな事をしたのか。彼女は仲間だったはずだ。私の疑問を察するように、ルシアナさんは仮面に手をかける。
「……嘘……?」
信じられなかった。
何故なら――。
「無……傷?」
仮面の下にあったのは、傷一つない綺麗な肌だったから。
「びっくりした?」
ルシアナさんは舌を出して、子供のように笑った。
「私も最初はびっくりしたのよ? だって仮面つけてアーシア様への恨み言を言えば、傷の確認もされずに革命軍に潜入することができたんだもの。まぁ、顔を傷つけられる苦しみを知ってる女性達が、傷を見せろなんて言いにくいのも分かるんだけれどね」
「……あなたは」
「私は学もあったし、軍事訓練も受けたことがあったから、その経験を見せればすぐに中心メンバーとして組織の運営を任されることになったわ。本当にザルすぎて笑っちゃっうくらい簡単に」
「……一体」
ルシアナさんが私を見つめる。瞳の奥に無邪気さを私は垣間見る。同時に、底知れない酷薄さも。ルシアナさんは丁寧にお辞儀をしながら言う。
「初めまして。リヴァリア王国の諜報兼メイドをしているアレット・ジャスティンよ」
「アレット・ジャスティン……」
聞き覚えのない名前だった。でも、彼女が私の敵だという事だけは分かった。彼女がブレンナーさんをこんなに無残に殺したのだ。
「っ!?」
怒りで目眩がする。私は無意識にお腹を守るように抱きしめた。
「言っておくけど、怒りを向けられる筋合いはないわよ。リヴァリアの恩恵を受けてきたくせに、牙を向けようとしたのはそっちなんですから。この国が気に入らないなら、出て行けば良かったのよ」
ルシアナ……いや、アレットは言う。
「リヴァリアはアーシア様のご意向もあって、いろんな問題はあるけど、いい一面もあるわ。妥協して生きて行くには非常に安全っていうメリットがね。他の国を見てみなさい? いつ他国から侵略を受けて虐殺されるか分かったものじゃないでしょう? そういった利点を受けて今まで安穏と暮らしてきたくせに、気に入らない部分だけを見て裏切る。……貴方たちって本当に――最低よね?」
カッとなる。その一言だけは、私は絶対に許せなかった。
「オルガさん達と一緒に過ごして……よくそんな事を言えますね!? 彼女たちの苦しみ……あなただって女性なら分かるでしょ!!?」
オルガさん達は理不尽に奪われて、ずっと苦しんでいたんだ。それを間近で見て、私よりも長くいたはずのアレットの言葉を私が見逃すことができない。
しかし、アレットは何も分かっていないとばかりに肩を竦めて嘆息する。
「アーシア姫様の例の政策……確かに私もどうかと思うわ。だけどね、あれは施行前にすべての国民に知らされていたのよ?」
「え?」
私は何も知らない。オルガさん達も、何も知らされていなかったはずだ。
「被害を受けた子にはね。それに見合うだけの補填金が出ていたし、多額のお金とコネを使えば回避することだってできた。……私のようにね」
アレットはニコッと笑ってみせる。その笑顔に、私はもう美しさの欠片も感じることができない。
「あの子達の親は娘の運命を知ってたはずよ。知ってて送り出した。お金のために。だからオルガは捨てられたのよ。お金をもっときて、もう用済みだったから」
「ぅ……あぁ……」
目の前がクラクラする。
「そしてルミナちゃん、貴方もね」
「えっ?」
世界が静止する。
「貴方の育ての親……ジョセフィーヌさんだっけ? 彼女も貴方をお金目当てできっと送り出したのよ」
「違う!」
「あんなお家ですものね……そうなる気持ちも分かるわ」
「ジョセフィーヌさんはそんな人じゃないです!」
「だから、今も後悔してるんでしょうね」
「……後悔?」
ジョセフィーヌさんの申し訳なさそうな顔が思い浮かぶ。
「自分がお金のために犠牲にしようとしていた子が、自分のために働いて介護までしてくれる……どんな気持ちなのかしら?」
嫌なのに。否定したいのに。どれだけ否定しようとしても、嫌が応にも記憶の中のジョセフィーヌさんの顔とアレットの言葉が重なっていく。
「申し訳ない……犠牲にしようとしたのに……どんな顔をして世話をしてもらってるのか分からない。ジョセフィーヌさんも不憫よね。まぁ、自業自得なんだろうけど」
「そんなはず……」
そんなはずない!
だけど、それに続く言葉が出てこない。下を向いて、泣くこともできず、私はブレンナーさんの身体に抱きついた。
「可哀想な可哀想なルミナちゃん……」
アレットが私の顎を持ち上げる。その瞳には魔性が宿っている。
「貴方さえよければ、私が次の飼い主になってあげてもいいのよ?」
顎を持ち上げられる。見つめられ、私は魅入られそうになるが、お腹の中に命の息吹を感じ、私はその手を振り払った。
「やめて!!」
すると、あっさりとアレットは私から離れた。後退しながらアレットは言う。
「貴方みたいな子、嫌いじゃないわ。だから、殺さないでおいてあげる。子供も嫌いじゃないしね」
チラリとアレットは私のお腹を見る。お腹はまだ大きくなっていないし、ブレンナーさんとジョセフィーヌさん以外の誰にも伝えていないのに、何故彼女がそれを知っているのか。
私が理由を問うよりも先に、彼女は私の前から姿を消した。
血まみれの部屋に、私と冷たくなったブレンナーさんだけが残される。それから数日間、私はブレンナーさんの隣で死んだように過ごした。変わり果てた姿になっていくブレンナーさんの姿を目に焼き付けながら、私は三日目に、生き残ったオルガさんから革命軍敗戦の知らせを受けた……。
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