第二章 救世主

第10話 とある女と男の話

 私の中で最も強く記憶に残っている事、それは苦痛だった。ただただ、ひたすらに苦しいという感覚。痛みを飛び越えてしまうという感覚を私は生まれて初めて経験した。そんな地獄の中で、唯一幸運だったと言えるのは、その身も心も崩壊するレベルの苦痛が長くは続かなかった事だろう。人間はいずれ死ぬ。脳が縮むような激痛に苛まれた私の命は必然、長くはなかった。

 私は死んだ。

 死んだ――はずだった。

「…………」

 それでも今、私はここにいる。何故かは分からない。以前の記憶には靄がかかっている部分が非常に多かった。だが、大事な事は私がここで息をして、心臓を動かして生きている。それだけは確かなことだった。

「ルミナ……仕事に行ってきな」

 明かりすらない暗闇の中が私の家だった。ゴミが散乱し、雨を凌ぐ大きめの葉っぱを積み重ねて作った簡易な屋根だけがある。カビ臭い香り漂うこの中で、私は十数年という人生の大半を過ごしてきた。

 声をかけてきたのはこの家の家主である。私は家主であるジョセフィーヌさんにゴミ捨て場に捨てられていたのを拾われた。いわば、私にとって恩人のような存在だ。

「うん、分かったわ」

 私はそう答えた。仕事は生きていきたいなら決して怠るわけにはいかない。私はもう一人で生きていける年齢だ。仕事をせず、怠けていたらすぐにジョゼフィーヌさんに家から追い出れてしまうだろう。私はそれだけは嫌だった。

「じゃあ……行ってくるわ」

 私は暗闇に向かって言う。そこには、もうすでに寝たきりになっているジョセフィーヌさんがいるはずだ。ジョセフィーヌさんは寝たきりになっても、私に助力を願うことはない。下の世話も、なんとかまだ自分でできていた。私はその事を、少し寂しく思っていた。

 私が家から出ようとすると、背中に声がかかった。

「……気をつけて」

「うん、ありがとう」

 その言葉に、私は頬が緩むのを抑えきれなかった。








 仕事の斡旋をしてくれる集会所のドアを私が開ける。すると――。

「おう、来たか!」

「はい、こんにちわ」

 禿げた頭に、脂肪まみれで大きく膨れた妊婦のような腹を揺らして、男が私に声をかける。私に仕事を斡旋してくれ、ここら周辺の町を一手に取り仕切るやり手の商人だ。名をブレンダーさんと言う。

「ブレンダーさん、今日は私はどうすれば?」

 私が問うと、ブレンダーさんは手に持った書類を数名捲って言う。

「ああー……今日は『無辜の羊』っていう店で頼む。場所はここだ」

 ブレンダーさんに私は地図を手渡される。それほど遠くなく、私もよく知るお店だった。上手くやれそうで私は内心ホッとする。

「じゃあすぐに向かいますね」

「おう、頼む! あ、アレ忘れんなよ!」

「……はい」

 頭を下げると、私はブレンダーさんの隣を通り過ぎて集会所の奥へ向かった。いくつものドアがあり、私はその中でシャワー室と書いてあるドアを開ける。

 ザーーーーという水音。すでに何人かの人物がシャワーを浴びている最中だ。ちなみに、脱衣所もシャワー室内も男女共用である。私は軽く周囲を見渡す。壁際にはそれぞれの仕事に合わせた着替えが用意されていた。脱衣所の中には脱いだ女性用の下着や上着はあるが、男物の服はない。その事に、私はほんの僅か胸を撫で下ろす。

「なんて……今更かな……」

 自分の身体に穢れていない場所など存在しない事は誰よりも私が知っている。見られて恥ずかしいと感じる心など、とうの昔に捨てた。それでも、シャワーという心安まる場所では、なるべく異性の姿が見えない方が安心できた。

 私が着ていた服を全部脱いで所定の籠に入れる。この服は仕事終わりに綺麗に洗濯されて返ってくるというシステムだ。代わりに、壁際のロッカーから今日の仕事着とタオルを取り出して、用意しておく。

「さぁ、行きましょうか」

 準備ができればようやくシャワーの時間だ。浴室内に足を踏み入れると、自然と笑みが浮かんだ。中は開放的であり、個室などは存在していない。最初は大いに戸惑って、異性の存在に涙すら浮かべたものだが、私の足取りは軽かった。適当なノズルを手に取ると、頭からぶっかける。

「~~~~っ!!」

 お湯はでない。すべて水だ。冬場などは地獄だが、それでも身を清められる喜びに勝ることはない。スラム街で生まれ育った私にとって、シャワーはとてつもない贅沢なのだ。

 水で全身を流すと、次にソープを手にとって全身に塗りたくる。身体から流れ落ちる水が少し濁っており、自分がどれだけ汚れていたのか知り、少し憂鬱になる。私は必死になって身体を洗い流した。

 シャワールームを出ると、次に仕事着を着て、香水を軽く振りかける。花の香りがフワッと周囲にばらまかれ、私は幸せな気分に浸った。しかし、幸せなのはここまで。仕事はいつも、どんなものでも辛く厳しい。私のようなスラム街の生まれならなおさらだ。

「無辜の羊……ん」

 何度かこの店には来たことがあった。でも、前回着たのは数ヶ月前であり、場所についてはうろ覚えだった。地図のおかげで時間通りに到着できた事に、私はとりあえず安堵した。

 ドアを開けると、カラーンとベルが鳴り、奥から人が出てくる。

「あら? 今日はルミナちゃんなのね」

 妖艶な女性だった。胸の辺りを大胆に露出し、お臍は丸出し。短いスカートにはギリギリまで切れ込みが入っている。下着と言っても過言ではない服装。そして、それ以上に特徴的なのは、頭部に装着された羊耳だ。……もちろん、それを私も着用している。着用して、町の中を歩いてここまでやってきた。制服を着用した瞬間から、すでに私の仕事は始まっているのだ。


「はい。ブレンダーさんの紹介でやってきました。お久しぶりです」

 私は深々と頭を下げる。無辜の羊の女性主人であるベルナさんは優しい方だ。しかし、だからといって無礼を働くわけにはいかない。仕事先で信用を失えば、あっというまにブレンダーさんに伝わって、その日食べるものにも困る日々に逆戻りだ。

「ええ、久しぶり。さっそくで悪いんだけど、お客様一人いいかしら?」

「はい。もちろんです」

 私は即答した。無辜の羊では客をとればとるほど報酬も増える。客引きをせずに客をとれるなら、そんなに楽なことはない。

「そっ、ありがとう。じゃあ三番の部屋に入って。これ飲み物」

 ベルナさんから二人分の飲み物の乗ったお盆を私は受け取る。

「……はぁ……ふぅ」

 大きく深呼吸すると、私は意識して花が咲くような笑みで三番のドアを開けた。







 仕事終わりはいつも憂鬱だった。仕事中と普段のあまりに違う自分に、自己嫌悪に陥ってしまう。しかし、それも手にずっしりと感じる重みに次第に和らいでいく。無辜の羊を問わず、ブレンダーさんが斡旋してくれる仕事はすべて日払い制度だ。そのため、その日暮らしの貧しい人間には大きな救いの手になっている。例に漏れず私も、ブレンダーさんには心から感謝していた。

「……戻りました」

 集会所に戻り、仕事が無事に終わった事を私は事務の人に報告する。その際に、いつも通り報酬の二割を納めた。今日稼いだのは銀貨一枚。この町の平均的な月の収入が銀貨十枚程度なので、破格の給料と言ってもいい。集会所には銅貨二十枚を納めた計算だ。

 すべての報告を済ませた私はシャワーを浴びて汚れきった身体を清めた。休憩室で座りながら髪を拭いていると、背後から声をかけられる。

「よぉルミナ。お疲れさん」

 ブレンダーさんだった。

「はい。お疲れ様でした」

 私が軽く頭を下げる。すると、ブレンダーは苦笑していた。

「相変わらず堅いっていうか、愛想のない奴だなぁ」

「申し訳ありません……」

 私はブレンダーさんの機嫌を損ねたのではと、今度は深々と頭を下げる。ブレンダーさんは膝を叩いて大笑いした。

「がはははははっ! いやぁ、悪ぃ! 怒ってるわけじゃねぇよ。むしろ、そういう媚びない所は俺の好みでもある」

「はぁ……」

 私はブレンダーさんの言いたいことが良く分からなかった。時々ブレンダーさんは遠回しな事を言う。普段は豪快でズバズバ物を言うタイプなのに。私はそれが不思議で仕方がなかった。

「まぁお前に男の機微を理解しろってのも酷か。じゃあはっきり言わせてもらう。例のモノ今月分が届いた」

「っ!」

 私の目の色が一瞬変わる。それを見逃すブレンダーさん」ではなく、ニヤリと笑みを浮かべた。

「仕事で疲れてると思うが……俺の相手もお願いできるかねぇ?」

 私は一も二もなく答える。満面の笑みで。

「喜んで!」

 そのどこまでも作られた機械的な笑顔に、ブレンダーは小さく肩を落とすのだった。



 集会所の休憩室には種類がある。まずスラム街出身者などが主に集う大部屋、次に事務員専用の小部屋。そして主人であるブレンダー専用に作られた個室である。この個室は仕事のためにブレンダーが何日か泊まり込んでも快適なように設計されている。大きなキングサイズのベッド、風呂や台所も完備されており、高級宿並の内装が施されていた。

「…………」

 私は横になりながら、初めてではないにも関わらず、この豪華な部屋に目を奪われていた。ブレンダーさんとの行為の最中もそうだった。こんな部屋に住んでみたい……私は身の丈を弁えている方だと自負しているが、そう思ってしまう自分を止められない。

「どうした? じっと見て」

 ブレンダーさんが後ろからルミナに抱きついてくる。巨大なゴムまりのようなブレンダーのお腹が私の背中で潰される。ブレンダーさんは熱心に私の身体を撫で回し始めた。

「ブレンダーさん、まだご満足いただけませんか?」

 ブレンダーさんは絶倫だ。今日、何度彼に付き合っただろう。私は正確な数を覚えてはいない。数え切れない程の数だということが確かだった。さすがに私も、疲れ果てていた。

「いや、今日は打ち止め。こうしてると落ち着くから……ちょっと我慢してろ」

「はい」

 私は頷いて、ブレンダーさんの好きにさせることにした。ブレンダーさんがしたい事があるなら、できる限りしてあげたかった。別に恋愛的な意味ではない。ジョセフィーヌさんとはまた違った形で、ブレンダーさんが恩人であることに間違いないからだ。

 しばらくされるがままにされていると、ブレンダーさんが耳元で囁いた。

「ルミナの肌は最高だな」

 外見に似合わない適度に低いとてもいい声だ。集会所内での知り合いで、ブレンダーの声が好きという女性に何人か心当たりがあった。

「ありがとうございます」

 手入れをしていないどころか、乱雑に扱っている。にも関わらず、ルミナは肌を褒められることが良くあった。

「なんなんだろうな。手触り……具合? なんかいい感じなんだよな。……顔は平凡なのにな……」

「…………」

 私は少しムッとした。理解している事とはいえ、自分を抱いた男にそう言われると、多少傷つく。それをブレンダーさんも察したのか、すぐに謝罪の言葉が飛んでくる。

「あ、ああ、悪い。年頃の女に言っていい言葉じゃなかったな」

 年頃じゃなくてもダメですよ、とは私は言えなかった。ブレンダーさんの機嫌を損ねるわけには絶対にいかない。ただ、少し傷ついたことを知ってもらうため、私は着替えを始めた。普段なら、ブレンダーさんが私に飽きるのが先であった。

「おいおい……許してくれよ……」

 ブレンダーさんが情けない声を出す。容姿とも声ともかけ離れた態度に、ルミナは少し微笑む。

「お、笑ったな? ……あーーーーしゃあない! ちょっと早いけど今日はこれでお開きにするか!」

 ブレンダーさんがベッドから立ち上がり、着替え始める。先に着替えを終えた私はブレンダーさんの着替えを手伝った。

「ほら、これだ」

 身だしなみをキッチリ整えたブレンダーさんは、私に小さなケースを手渡す。その中にはカプセル状の薬が一月分入っている。とても高価な品であり、手配してもらう代わりに私を好きにしてよいという契約をブレンナーさんと結んでいる。

「お前……いつまで続けるつもりだ?」

 タバコに火をつけながら、ブレンダーさんは言う。何の事を言っているか、私にはすぐに分かった。

「……終わるまでです」

 答えは、初めから決まっている。最後の瞬間を見届けるまで。それが救ってもらった恩返しにもなるのではないか。私はそう思っていた。

「それまでずっとあんな所で暮らすつもりか?」

 あんな所と言われれば、私としては少し心外だ。

「ずっと暮らしてきましたから」

 いろんな意味で、愛着だけはある。しかし、それはブレンナーさんには到底理解できないらしい。

「かぁー。信じらんねぇな。金はそれなりに持ってるだろうに」

 ブレンナーさんは私達貧民の救世主だ。だが、だからといって貧民の事を理解している訳ではない。いくら交流しようとも、生まれながらの商人と生まれながらの貧民では、人生に対する考え方があまりにも違うのだろう。

「私もいつかは……」

「ん?」

「い、いえ! なんでもありません!」

 私は油断して本音が漏れそうになった自分を内心で戒める。たとえ恩人であったとしても、この厳しい世界で弱音や願望を語ることは、それだけでリスクに繋がる。彼らの嗅覚は絶大だ。私など一瞬で食い散らかされてしまうだろう。

「では、これで失礼しますね?」

 ドアを開けて、私は一礼する。ブレンアーさんは気まずそうに頬を搔きながら別れ際につぶやいた。

「本当に……鈍い女だねぇ……」







「ただいま」

 家に帰る。そこは、今までとは別の意味で、異世界だった。中に入った途端に、ムワッとした異臭を私は感じた。

「ジョセフィーヌさん?」

 私とジョセフィーヌさんの空間を区切るのは、ボロボロの布きれ一枚だ。私はそれを捲って、ジョセフィーヌさんの様子を伺う。

「こっちにくるんでない!」

 私の気配に気づいたジョセフィーヌさんが怒声を上げる。しかし、私はそんな態度にも慣れたもので、呆れたように溜息をついた。

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ? ……ジョセフィーヌさんだって気持ち悪いでしょうに」

 蝋燭を灯すと、ジョセフィーヌさんの寝ているお尻の辺りが茶色く変色していた。漏らしてしまったのだ。ここの所、こういった事が何度かあった。普段は一人でなんとか頑張っているようだが、たまに間に合わない時がある。

「あんたに気を遣われることじゃないよ! 自分でなんとかするからね!」

 でも、困ったことにジョセフィーヌさんはプライドが非常に強い。そのせいで、私が面倒を見るという主張に一切耳を貸すことはなく「自分でなんとかする」の一点張りである。ジョセフィーヌさんは元々は良家の生まれらしく、こんな場所に堕ちても誇りを持っている。それを私は尊敬もしているが、もう少しだけ柔軟になってくれてもいいとも思っていた。

「ジョセフィーヌさんが自分でできるのは私も分かってるわ。だけど、お手伝いはさせて? じゃないと匂いがこもっちゃうから。それはジョセフィーヌさんも嫌でしょ?」

「そ、それは…………」

 ジョセフィーヌさんも高齢とはいえ女性だ。匂いを気にしないはずがない。単純に気持ちが悪いのも、もちろんある。だからこういう時は引かずに押すことを私は経験で学んでいた。

「はい……じゅあ着替えましょう」

 私はゆっくりと汚れを広げないようにジョセフィーヌのズボンと下着を脱がす。ついでに、布団も新しい物に交換する。

 そして――。

「……っ……ぐぅ……っぅ」

 この時、決まってジョセフィーヌさんは泣く。

「…………」

 それを見て、私はいつも目を逸らす事しかできなかった。ジョセフィーヌさんは事ある毎にルミナに家から出て行くよう告げる。私にある程度のお金があることに気づいているのだ。しかし、決して助けを求めることはしない。私の新居に一緒に行こうと提案しても、拒否された。良い服や食べ物もジョセフィーヌさんは少しも口にしようとはしなかった。たまに、私はジョセフィーヌさんを苦しめているのは自分ではないかと苦悩する事がある。ジョセフィーヌさんの病気は完治する見込みがなく、ブレンナーさんが用意してくれる薬も、進行を少し遅らせて、痛みを和らげる程度の効果して期待できない。医者の見立てでは、半年も待たずに、ジョセフィーヌさんは亡くなってしまうという。私にはそんなジョセフィーヌさんを見捨てるなど、到底できることではなかった。

「私はいいから……ルミナ、あんたは好きな所にいきな……」

 またそんな事を言うジョセフィーヌさんに、私は――。

「ううん。いる。ずっとここにいるよ」

 濡れたタオルでジョセフィーヌさんの身体を丁寧に拭きながら、私は唇を噛んでそう答えるしかなかった。何の解決にもならず、ジョセフィーヌさんを苦しませるだけの善意。偽善。自己満足。私は日々弱っていくジョセフィーヌさんを見つめながら、自分の無力を呪った。






 翌日も仕事のために集会所を訪れていた私は、その日、ブレンナーさんに自身の運命の転機となる話を聞かされた。

「え!? 本当ですか! その話!?」

 私は目を見開いて驚いた。それくらい、ブレンナーさんの話は衝撃的だった。

「ああ、本当だ。俺も昨日実際に話を聞いてきた」

 ブレンナーさんの表情は至って真剣であり、とても冗談を言っている雰囲気ではない。

「そ、そんな……ジョセフィーヌさんの病気が治るなんてっ……」

 まるで、夢物語だ。しかし、その夢物語に私の心は大きく惹かれている。

 話の流れはこうだ。この町に革命軍の拠点ができた。以前からブレンナーさんはその革命軍のパトロン的な役割を担っており、革命軍がこの町を拠点に選んだのも、それが理由だった。重要なのはその先。革命軍のリーダーは高名な人物であり、魔術師という事。世間に疎い私ですら名前を知っていたくらいだから、有名なのは間違いなかった。その魔術師の得意とするのは風の魔術、そして、癒やしの魔術だ。ブレンナーさんの話では、魔術師はジョセフィーヌさんと同じ病気を以前に治したことがあるらしい。

「でも……一体どうしてそんな話に?」

 ルミナが気になったのはそこだった。普通に話していて、ジョセフィーヌさんがかかっている難病を直した経験があるかないか聞くことはないはずだ。ブレンナーさんが適当な事を言っているとは思わないが、そこが私は少し気になった。

「それは……あれよ……」

 ブレンナーさんが少し口籠もる。しかし、キッと目つきを鋭くすると、堂々と言い切った。

「お前ともお前の恩人とも知らない仲じゃねぇ。あいつが癒やしの力を持ってるんだ。聞くのはタダなんだから別に不思議がる事でもないだろうが」

「ブレンナーさん……っ」

 私は感動して、息を詰まらせた。ブレンナーさんのような成功者が、私のような底辺を気にかけてくれた事に深く感動した。

「じゃ、じゃあ! ジョセフィーヌさんを助けて頂けるのですか!?」

 そこが何よりも重要な事だった。

 しかし――。

「いや……それがよ」

 しかし、ルミナの期待とは裏腹にブレンナーさんの歯切れは悪い。

「ブレンナー……さん?」

 私はブレンナーさんを懇願するように上目遣いで見る。平凡な顔と言われている私にも、それなりに綺麗に見える角度というのは存在する。仕事柄、ルミナはここぞという場面で、それを出していた。

「おいおい……そんな目で見るなよ」

 やはりというべきか、ブレンナーさんには通用しない。それでも私はブレンナーさんを見つめ続けた。やがて、ブレンナーさんは根負けしたのか大きな溜息を吐いて肩の力を抜く。

「率直に言うと、お前の恩人を助ける術はある」

「っ!」

 私の表情が喜色一面に染まる。

「だが、条件も当然ある」

 そして続く一言に、私は心に自制をかけた。欺し欺されが当然の世界で生きてきた私にとって、条件、対価といった言葉は重い意味を持つ。私は心を落ち着けてブレンナーさんの次の言葉を待った。

「今あいつは革命軍の決起準備を急ピッチで進めている。それが終わるまでは時間をとることができない」

「それはいつの事ですか!?」

「それは不明だ」

「そんな!?」

 ジョセフィーヌさんの命は長くて半年。そう長い間は待てない。おまけに、条件はそれだけではなかった。

「当然、革命軍が負ければリーダーのあいつは死罪だろう。おまえもこの国に生きているなら知っているだろう?」

「鬼姫……」

 私は畏怖を込めてその名を呟いた。鬼姫。その名の通り、心の中に鬼を宿した血も涙もない姫。あらゆる虐殺、蛮行、理不尽を繰り返し、それでも悠々と存在する生ける暴虐の化身。また、逆にそのあまりの清々しい態度から、根強いファンも複数いるらしい。私にはまったく理解できなかったが……。とにかく、鬼姫に負けるという事は、死ぬという事で概ね間違いないだろう。

「最後に金だ。とにかく、勝つためには金がいる、寄付という形での金品をあいつは要求してきた」

「お金……」

 難題だった。

「えっと……いくら、ぐらいですか?」

 私はゴクリと生唾を飲み込みつつ、問う。ブレンナーは一つ間を置いて、重々しい口調で言う。

「金貨……五百枚」

「…………」

「お、おい!」

 私の足下がふらつく。慌ててブレンナーに支えられ、事なきを得た。

「無理……無理ですよ……」

 ルミナの貯金は銀貨十七枚。一般の庶民よりは稼いでいるとはいえ、ジョセフィーさんヌの治療代を払いながらとなると、これぐらいが限界だった。何の足しにもならない金額でしかない。

 そんな私に救いの手を差し伸べたのは、ブレンナーさんだった。

「肩代わり……してやってもいい」

「え?」

 呆然と私はブレンナーさんを見返した。何を言われたか、一瞬理解できなかった。

「金貨五百枚、肩代わりしてやってもいい」

 繰り返して言われ、ようやく私は理解する。

「ブレンナーさん……何を言って?」

 とても正気の沙汰とは思えなかった。私はほんの小娘だ。平凡さしか取り柄もない。肩代わりした所で、若さを売る商売でいつまで今の稼ぎが続くか分からない私に金貨五百枚という大金の肩代わりは私は信じることができない。必然、私は疑う。

 疑惑の目を向けられたブレンナーさんは若干困惑する。しかし、すぐに覚悟を決めたように息を吸うと、一息にありえない一言を口にした。

「ルミナ、お前が好きだ。結婚してくれ」

「は?」

 私はポカンとしてしまう。衝撃の展開続きで、頭がどうかしてしまいそうだった。しかし、私の困惑も何のその、ブレンナーさんは私の肩を掴む。

「結婚してくれたら金貨五百枚、俺が肩代わりしてやる」

 豊満なお腹と頬肉を揺らし、ブレンナーさんは真剣に言う。いつの間にか、あれよあれよと私の左手の薬指には指輪が填められていた。脅迫とも懇願ともつかないブレンナーさんの態度に、私は呆然とすることしかできない。

 それでも――。

「本気……ですか?」

「ああ!」

 ブレンナーが本気だという事は何よりも私に伝わってきた。これがもし何かの罠なら、私はもう生きる気力などなくすだろう。それくらい、真摯に思えた言葉だった。

「…………」

 私は数秒だけ考える。だが、実際には考える間など必要はない。答えはただ一つだった。私はブレンナーさんの頬肉に口づけする。

「そのお話……お受けします!」

 そう言った。ブレンナーさんの目を見つめ返しながら。

「よし!」

 ブレンナーさんが力強く頷く。

「今日から俺たちは夫婦だ。もう二度と俺以外に身体を晒すことは許さん! いいな!」

「はい、分かりました…………あなた」

 元より私に迷いなどない。ジョセフィーヌさんを助ける道があるなら、進むと決めている。そのために必要なのが尊敬するブレンナーさんとの婚姻ならば、なおさら大歓迎だ。私は自分の器というものを知っている。平凡、凡人を絵に描いたような人間だ。確かにブレンナーさんは見た目はお世辞にもいいとはいえない。だが、財力も権力も名声も持ち合わせている。恩もあり、嫌う理由など一つもない。そんな彼が自分を求めてくれるというなら、私は喜んでブレンナーさんのものになりたいとすら思った。

 つまり、何が言いたいかというと――。

 ルミナはブレンナーに好意を向けられて、嬉しかったという、ただそれだけの話だ。

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