幕間
帝都大図書館、地上一階にて
私だって司書の一人だから、腰にはいつも刀を差している。
魔法で軽くしているから気にならなくて、振り向いたり、座ったりする時にちょっと邪魔かな、と思うくらいだ。
学校に通っていた頃は、これで私も魔物を――なんて意気込んでいたけれど、地上一階の受付勤務になってからは意味がなくなった。一階はむしろ、刀を振るうより、愛想を振るわなければいけない。自然な笑顔を作るというのは難しくて、働き始めた頃は苦労したのを覚えている。
それから数年――
昨日と同じ今日。
今日と変わらない明日。
そんな不変の日々に、突然変化が起きた。
神木・誠治君である。
私みたいな司書でも、片斬と如月隊の対立は知っている。というか、先輩達から『如月隊は敵だ』、と嫌というほど聞かされてきたから、如月隊を悪者の集団のように感じていた。
そんな部隊から出向してきた男だ。きっとゴリラのような大男で、粗暴で恐ろしい人に違いない、と思っていた。
でも、違った。神木君は礼儀正しい好青年で、粗暴さなんて一切なかった。
まぁ、初対面の時、突然「アニスが――」なんて、よく解らない名前を口走りだした時は、ちょっと怖くて逃げてしまったけれど……。彼はそんな私を嫌わず、ちょくちょく受付に顔を出すようになった。
差し入れです、と売店のお菓子を振舞ってくれるし、駐屯地からの帰りには、必ずお土産を買ってきてくれる。どうやら全階に配って回っているみたいで、その律儀さ、マメさには感心するばかりだ。
彼は言っていた。
『如月隊は、佐々木さん達と変わりません。共に魔物と戦い、人々を護りたい。そう思っているのです』
じゃあ、神木君もそうなの? って聞いたら、彼は笑顔で頷いたのだ。
『はい、そうです。俺も如月隊の一員として、佐々木さん達と肩を並べていきたいと思っています。何かあったら気軽に呼んでください。すぐに駆けつけますから』
ドンと胸を張る姿に、格好いい人だなぁ、なんて思ったものだ。
だから――だから、
「早く助けに来てよ、神木君……!!」
目の前には、阿鼻叫喚の地獄が広がっていた。
悲鳴。怒号。絶叫。
それを掻き消す、魔物の咆哮。
先輩達が利用者の避難を促していて、今のところ大きな怪我人は出ていないようだけれど、暴れている魔物――巨大な黒い獅子を、私達司書は倒せないでいた。
毛深くて皮が分厚いのか、刃が通らないのだ。
試験では一番だったという先輩が、魔物の鉤爪を受けて吹き飛んで、本棚に当たってぐったりと動かなくなる。周りから悲鳴が上がった。
黒獅子がそれに気付いて、こちらを向く。
真紅の瞳は、狂気に染まっているように見えた。
利用者の誘導を終えた先輩や同僚達が抜刀し、一丸となって黒獅子に向かっていく。
私も戦わなくちゃいけないのに、震える手には力が入らなくて、刀の柄を握ることすら出来ない。
下を向いたら、涙がぼたぼたと眼鏡に落ちて、前が見えなくなった。
「助け、助けて……」
声が震えて、もう立っていることも出来なくて、その場にへたり込む。
「どうしてこんな!」
「誰か助けてくれ!」
「死にたくない! 死にたくないよ!!」
同僚達の悲鳴が響く。
あの魔物は――あの本は、地上一階の広場に特別展示されていた稀覯本だ。
三百年前、最初にこの世界に持ち込まれた異世界の本で、中身は歴史書だったはずだ。魔物化する訳がないのに、現実が嘘を吐いた。
だから、地震のような地響きが起きて、大結界が砕けて、透明だった大図書館の空気がゆっくりと、けれど確実に濁り始めた時、誰も広場の本に意識を向けていなかった。
気付いた時には、遅かったのだ。
ガラスケースが内側から砕ける音と共に、朱色に輝く巨大な魔法陣が展開し、黒獅子が現れた。私は私の出来ることをしたけれど、効果があったか解らない。
そして今、絶望が広がっている。
司書は逃げられない。この受付が最後の防波堤だ。ここで魔物を食い止められなかったら、帝都に被害が出てしまう。それは駄目だ。それだけは阻止しなければいけない。
それなのに、私は何も出来なくて――
……嗚呼、
同僚達の悲鳴すら、聞こえなくなってしまった。
ゆっくりと、何かが近付いてくる気配がする。
獣臭い、荒れた息を肌に感じる。
震える視界の中に、黒く太い脚が入る。
死だ。
「たすけ、て……」
掠れた声で、私は助けを求めることしか出来なくて、
世界が暗くなる。
一口に、食い殺される――!
「――ッ!!」
……。
…………。
「……、……あ、れ?」
反射的にぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開くと、視界が開けていた。
どころか、死は姿を消し――
一度だけ見たことのある雪のように、周囲に紙が舞っている。
頭上から、力強い声が響いた。
「もう大丈夫だ! 助けに来たぞ!」
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