誠治と舞 (中)
「――嗚呼、」
姉さんの微笑みが陰り、俯いてしまった。
その十八歳の少女の姿は、俺の知らないものだ。
無意識に、『姉さんはこんな姿は見せない』と思い込んでいたものだ。
……そうだ。俺は『姉さんは恋愛などしない』と決め付けていた。
そういうものとは無縁の、超越者のような人だと考え続けていた。
そんな訳がなかったのに。誰よりも感情豊かで、激情家である本来の姉さんを知っていたのに。
俺は、片斬・舞という少女に、『姉』という理想を押し付けていたのだ。
それに気付かされて、胸が引き裂かれるように痛んだ。
『我々は、舞を怪物にしてはならない』
嗚呼――片斬・舞を怪物にしていたのは、この俺だったのだ!
姉さんの目に、大粒の涙が浮かぶ。胸を衝かれる思いだった。
「結局私は、『姉弟』であることに縋り付いていたんだな……。何もかも捨て去って片斬になったのに、誠治との関係はあの頃のまま変わらないと思っていたし、実際にそうだったから――誠治がそうしてくれたから、勘違いしてしまった。……変えたくないものは、維持する努力をしなければいけなかったのに、私はまた――」
「違う、違います! ……俺だって、同じだったんです。姉さんは変わらないと思い込んで、理想を押し付けてしまって……!」
衝動的に立ち上がる。対する姉さんは、小さく首を横に振った。
「誠治は悪くない。私だって、お前に理想を押し付けてきた。……なのに私は、お前の教えてくれる正しさを選べずに、いつも間違ってしまうんだ。お前と一緒に、歩けないんだ」
姉さんの目尻から、宝石のような涙が零れ落ちる。
「どうして、私の人生は上手くいかないんだろうな……。嗚呼――面倒だな。誰を斬れば解決出来る? 法を定める大臣か? それとも片斬家か?」
「……、……」
「冗談だ、冗談……」
姉さんが涙を乱暴に拭って、深く息を吐く。
揺れる視線はずっと下を向いたまま、俺を見てくれない。
淡々と、言葉が続いた。
「……いつだってそうだ。誠治は真っ直ぐに私を見てくれるのに、私は目を合わせられない。すぐに意固地になって、失敗して……今だって、『誠治なら』、なんてお前に甘えようとしている。……いつだって、そうだった。私はずっと弱いままだ。誠治が見てくれたから、誠治が認めてくれたから、誠治が……、誠治と……」
何度も何度も、姉さんが涙を拭う。いっそ殺して欲しいくらいに胸が痛み、俯く姉さんの姿が歪んだ。
「こんなことなら、『恋人』や『夫婦』などというものを知らなければよかった。片斬である私には、そんなものは必要なかったのに……。……私は、本当に愚かだ。姉様の存在がなくても、どうせこうなっていたんだろうな」
「ッ、」
何か言おうと思うのに、胸が詰まって言葉が出てこない。何も言えない。
そのまま、無言の時間が続いて……
姉さんが目元を拭い、深く深く息を吐いた。
「……行くぞ、誠治。休憩はもう終わりだ」
視線を下げたまま姉さんが立ち上がり、淡々と部屋を出て行ってしまった。
声をかけられない。
言葉が出ない。
だから――
「――姉さん」
涙を拭って部屋から出ると、俺は剣を抜いた。
振り返った姉さんがそれに驚き、躊躇い、眉を寄せて泣きそうになって……
俯きながら、刀を抜いた。
そうだ。
俺達には剣しかないから。
剣が全てだから。
剣を交えれば、通じ合える。
――真正面から、踏み込んだ。
■
白刃が煌く。
火花が散る。
その向こうに、懐かしい情景が蘇る。
俺の中にある最初の記憶は、木刀を握る片斬・舞の姿から始まっている。
父さんから話を聞くに、当時三歳。その頃から、舞は剣を習い始めていた。
戯れに棒切れを振っていただけの俺とは何もかもが違うその姿に、幼い俺は『自分も剣が習いたい』と父さんに頼み込んだらしい。そうして、俺もまた剣の道に進んだのだ。
当時から、舞の身体能力はその年代の平均を遥かに超えていた。けれど、稽古は厳しく、辛いものだ。道場では鬼のように厳しい父さんに、俺は何度も泣いた記憶がある。だが、舞は悔しそうにしながらも、一度も涙を見せたことがなかった。
嗚呼、そうだ。その頃から、俺の憧憬は始まっていたのだ。
俺と舞は、一緒に稽古を受けることが多かった。今にして思えば、それは父さんなりの配所だったのだと思う。
神木道場は、全国から選りすぐられてきた門下生が集まる場所だ。本来であれば、師範の息子というだけで門下に入れるほど、生易しい世界ではなかった。
だから――後の片斬と共に稽古をし、ついていけるようでなければ、俺はすぐに破門されていただろう。舞も、途中で俺がいなくなると思っていたに違いない。
だが、俺は必死に喰らいついた。片斬・舞という憧れに一歩でも近付きたくて、がむしゃらに頑張り続けたのだ。
そうして気付けば、舞からアドバイスをもらうようになり、出来なければ文句を言われ、『殺す』の言葉が飛んでくるようになって――
ある日、兄弟子達から睨まれて萎縮した俺に、舞が言ったのだ。
『誠治、貴方は私の弟弟子なのです。私の「弟」ならば、もっと堂々としていなさい』
それが、決定的だった。
俺の中の何もかもが変わった瞬間であり――その日から、俺は舞の弟になったのだ。
後の片斬ということで、彼女にへつらったり、よそよそしく扱ったりする門下生が多い中、『姉さん』と呼び慕い、弟として対等の関係を築けるのは、とても嬉しく、誇らしかった。
俺だけの特別。
「俺だけの、『姉さん』」
「……、……」
「俺は生涯、貴女の弟です。何があろうとそれは変わらない。だから俺は、ここに来たのです」
白刃が煌く。
火花が散る。
鍔迫り合いとなり、けれど姉さんが引いて退けた。それを追う。
過去にも、似た光景を見たことがある。
龍ヶ崎・マキと、姉さんが試合をした時だ。
その髪色と可愛らしい容姿もあって、門下生の中でも特別に目立っていたマキだったが、突出した実力があるようには見えなかった。
だが、違ったのだ。有り余る実力を持っていたせいで、それを存分に振るう機会がなかったのである。
他の門下生が帰った後――静かな道場で、俺だけが勝負の顛末を見届けていた。
目にも止まらぬ、剣の応酬――それは、見惚れるほど美しいものだった。
あの時姉さんが負けていれば、俺の信仰も少しは変わっていたのかもしれない。だが、姉さんは勝った。ただ一度圧し負けただけで、後は圧倒的だった。
ただ、姉さんにとってもマキの存在は驚きだったようで、その日から彼女を『マキちゃん』と呼んで可愛がるようになる。
五年前の、あの日まで。
「『平和な世界』は、突然終わる。それを知っているから、俺は――」
白刃が煌く。
火花が散る。
先代の片斬である雪殿が体調を崩され、予定よりも早く、姉さんが片斬を継ぐと決まった日。
雪殿が入院している、大図書館地上三階の病院に、帝国陸軍少将、龍ヶ崎・吾郎が見舞いに訪れた。そして、『外の医療技術であれば、貴女を救えるかもしれない』という話をしたと、俺は少将ご本人から伺っている。
だが、雪殿はそれを丁重に断り、少将に姉さんを紹介したという。
対する少将もまた、『如月隊のあり方が変わる』という説明をなさり――新設される如月隊の隊長候補として紹介したのが、自身の娘、龍ヶ崎・マキだったのだ。
予期せぬ形で、親友同士は事実を知り――姉さんは荒れに荒れた。
俺の失言は、その最中のもので……喧嘩をした翌日から、姉さんは大図書館で働き始め、俺は片斬家の敷地に近付くことすら許されなくなっていた。
俺は、人生の全てを失い――
失意の底で、龍ヶ崎・マキという輝きに救われた。
マキは少将の娘ではあるものの、血の繋がりはない。彼女にも複雑な事情があり、それは特例措置という形で顕在化した。
軍学校在籍中に『如月』を拝命した彼女は、十六歳の若さで隊長職に就いたのだ。
そんなマキの――隊長殿の勧めで入った軍学校で、俺は多くのものを学んだ。
先代の如月隊の面々と出逢い、新たに招集された面々と知り合い、知見を広げた。
冬を終わらせ、春を告げる『如月』の名の元で、とても濃密な五年間を過ごせたのだ。
そして俺は、『必ず姉さんと再会する』と己を鼓舞し、それに相応しい実力があると認められる為に、ひたすら自らを鍛え続けた。
「俺には、姉さんに見せたいもの、知って欲しいものが沢山あります。アニスだけではありません。俺は姉さんも一緒に、外へ、太陽の下へ連れ出したいのです」
白刃が煌く。
火花が散る。
結果を求める片斬家が、嫡子を遊ばせる訳もなく――姉さんは帝都在住でありながら、帝都の街並みを知らない。
昼間は専属の家庭教師から勉強を教わり、夕方と土日は道場で稽古をするだけの日々を十年間繰り返し続け、そのまま片斬となって大図書館で働き始めた。
司書にそれとなく話を聞いて回ったところ、その誰もが、十三歳で片斬になった姉さんに疑問を抱いていなかった。
『魔女』と同じように、『片斬』もまた、絶対的な存在として扱われ続けているのだ。
……一番身近にいた俺ですら、そうであったように。
故に、片斬には休みの概念が存在しない。年末年始も何もない。
かくあれ、と望まれた日から、死ぬまで魔物を斬り続ける。
アニスが言っていた。『出来ることなら、雪を救いたかった』、と。
だが、雪殿はそれを否定した。病床で、それが彼女の最初で最後のわがままだったから、アニスは何も出来なかったのだ。
そして最後に、雪殿はアニスに姉さんを託した。
予定よりも早く片斬を継がせること、本当はもっと話をしたかったこと……そうした多くの後悔と共に。
姉さんはそれを知らない。アニスは話したいと思っているが、言っていいものかどうか、ずっと悩んでいると教えてくれた。
アニスは言う。
『誠治が来てから、なんだ。毎日、舞がお茶の時間に戻ってきて、一緒にご飯を食べてくれて、世間話にも付き合ってくれるようになったのは。……いつも遠くを見て、厳しくも、どこか泣きそうな顔をしていたあの子が、誠治が来てからは笑っているんだ。……私は、この幸福を失いたくない』
姉さんが、アニスを『姉様』と呼び慕っていたように――アニスもまた、姉さんを愛しく思っている。
それは今も変わらない。
だからこそ――だ。
この閉鎖的な大図書館で、片斬に並ぶ実力者が増えれば、そこにある常識は大きく変わっていくだろう。片斬も休みを取って、外へと遊びに出かけられるようになるはずだ。
その想いを伝えたくて、俺は剣を打ち込んでいく。
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