第七章
地下十階へ
「んん?」
「どうしました、アニス?」
アニスへの告白から三日後。いつものように三人で朝食を取り、一休みしてから、さて定期検査へ――とアニスの部屋を出たところで、彼女が不意に視線を上げた。
猫が天井を見上げるように、アニスが何もない虚空を見やる。
「んー……地下四階の一部で音が途切れた。誰かが内緒話の魔法を使ったな」
「解るのですか」
「魔女だからな」
アニスが苦笑し、視線を戻した。
「昔からよくあることなんだ。魔女に聞かれている、というのを嫌がる司書や利用者は一定数いるからな。まぁ、最近は少し回数が多いように思うが……流石にそこまで疑いたくないし、詮索したくない」
街中の監視カメラを嫌うようなものだから、気持ちは解る。
だが、アニスとしては件の違和感もあるから、どうしても気になってしまうのだろう。彼女のジレンマを感じた。
「ともあれ、だ。出発前に、二人へお守りをやろう」
アニスが軽く指を振る。すると、その軌跡に白銀色の光の粒子が生まれ、俺達の方へと飛んできた。そして光が、俺と姉さんの周囲をくるりと回って消えていく。
「これは……?」
「魔物に対する気配消去の魔法だ。そういえば、今更な説明になるが――大図書館に出る魔物というのは、その全てが本であり、読者がいるからこそ動き出すという性質を持つ。言わば、飛び出す絵本のようなものなんだ。だから、気配を消せば本が反応しなくなる」
地下六階以下から魔物が上がってこないのは、単にアニスの結界の力によるものかと思っていたが、そうではなかったのだ。
無人だから、魔物も動かない。だったら普段も、と思うが、地下六階の本は浄化作業があるから、否応なしに本が反応してしまうのだろう。上手くいかないものだった。
「万一魔物が出て戦うことがあったとしても、そう簡単には消えない強固な魔法だ。他の魔物の出現を誘発することはないから、安心していい。――では、気を付けてな、二人とも」
「はい。行ってきます、アニス」
「行って参ります、魔女様」
アニスに見送られ、姉さんと共に地下十階を目指す。
歩き出した二歩目の時点で、姉さんの姿が視界から消え――俺もまた走り出しながら、その後を追う。
最初から最後まで全力であるのが、片斬・舞という人なのだ。
■
地下七階、八階、九階と階段を駆け降り――目的地である、地下十階へ。
周囲には、見上げるほど背の高い書架がどこまでも並び、ぎっしりと本が収められている。床に敷かれている毛足の長い絨毯も、等間隔に並ぶ明かりも、他の階と同じだった。
だが、空気が違っている。
階段を降りるにつれて、どんどんと重苦しく、嫌な感じになっていくのだ。
匂いがするとか、そういう訳ではない。むしろこれは、圧力のようなものだろうか。
一切浄化されていない本が発する、禍々しく、物々しい気配。
一冊一冊は微々たるものでも、数が数だ。何もないと解っていても、嵐の前の静けさのように感じてしまう。
「嫌な感じですね……」
「問題ない。魔物は斬れば済む」
「それもそうでした」
姉さんの言葉に、はっと気付く。気合いが空回りして、警戒しすぎていたのかもしれない。
空気そのものが澱んでいる訳ではないのだ。俺は深く呼吸をして、頭を切り替える。
腹に力を入れ直せば、重苦しさも気にならなくなった。
「では、検査を始めるぞ。大図書館に現れた本は、中央、北、東、南、西の順で書架に並んでいく。その順番、古い蔵書から確認を行う」
「どうして古い順に?」
「本の持つ魔力は、時間経過と共に濃縮するからだ。それは魔女様の魔力によって中和されるが、ここまで地下深くなると効力を発揮し難くなる。故に、古い本ほど力を増している可能性が高く、定期的に検査を行う必要がある訳だ。今のところは、半年に一回だな」
「では、過去には何か問題が?」
「いいや、何も起きていない。何か起きたら大問題なんだ。歴代の魔女様が維持してきた大結界に、綻びが出ている可能性が高まるからな。魔物は斬れば済むが、綻びを繕うには時間がかかる。そうすれば浄化が遅れ、最下階の魔力は更に濃縮し続ける。悪循環の始まりだ。この検査は、それを防ぐ為の重要なものなんだ。どんな小さな違和感も見逃すな」
「了解です」
「では、行くぞ。書架は背中合わせで一組だ。通路から中に入れば、左右に棚が並ぶことになる。それを一度に確認するのではなく、常に右側の棚だけを確認しろ。奥まで行ったら引き返し、また右側だけを確認する。それで一列終了だ」
歩き出した姉さんと共に、目を皿のようにしながら、俺は書架を一段一段確認していく。
「確認中、目に留まった本があっても気にするな。それは魅了の魔法のかかった本である可能性が高いが、書架に収まっている内は何の問題もないからな」
「触れず、さわらず――」
だが、それが難しいのだと知った。
目の前の本が、気になるのだ。
こちらはアニスの魔法で気配を消しているから、つまりこれは、食虫植物の匂いのようなものなのだろう。気を付けなければ――と思ったそばから、ふと目に留まった一冊へと無意識に手を伸ばしかけて、俺は慌てて距離を取った。
機密部隊だった頃の名残で、如月隊隊員は、魅了などの認識改変魔法に対する対策を常に行っている。相手が異世界の本であろうとも、完璧に防御出来るはずだった。
それなのに、これだ。想定以上の状況に、ぞっとする。
「姉さんは、これを一人で……」
「そう気負うな、誠治。一時間もすれば慣れてくる。だがそうすると、注意力が落ちるからな。左右の棚を同時に確認しないのはその為だ。流石にここでは休憩も取るから、根を詰めすぎるなよ」
「解りました。……『根を詰めるな』。父さんにもよく言われましたね」
「そうだな。……懐かしい」
小さく笑い合ってから、作業を続けていく。
しかし……魔物を斬って回る作業とは違い、ゆっくり歩きながらの確認は、思っていた以上に大変だった。肉体よりも先に、精神的に疲れてくる。
「囚人に穴を掘らせ、それを埋めさせる拷問のようですね……」
「止めろ、辛さが増す」
ああ、やはり姉さんにとっても辛いのだ。それでも淡々とこなす強い精神力を、姉さんは持っている。
――だが、それに甘えてしまっては、今までと変わらない。
普段以上に気を引き締めて、俺は検査を続けていく。
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