アニスと誠治
「ただいま戻りました。まだ浄化作業中でしたか?」
ノックと共に部屋に入ると、執務机の上に本が五冊ほど乗っていた。その向こうでアニスが苦笑し、読んでいた本を閉じた。
「いや、本棚の整理をしていたんだ。ただ、途中で本を読み始めてしまったら、止まらなくなってしまってな」
「解ります、つい手が伸びてしまいますよね。大図書館へ出向する際、荷物を纏めていた時もそうでした」
「やはり、やってしまうよなぁ。だが、それでは片付けが進まん。これは後で読むとして、と」
読みかけの本を置いてから、アニスが立ち上がり、他の本を大事そうに胸に抱えた。そして本棚の前へ立ち、一冊ずつ棚に戻していく。魔法で戻さないところから察するに、大切な本なのだろう。
その姿を見ながら、俺はあることに気付いた。
「その本棚の本には、ラベルが付いていないのですね」
「これは私の私物なんだ。売店に頼んで取り寄せている」
「……外へ買いに行く訳ではないのですね」
「通販の方が便利じゃないか、なんてな」
アニスの笑みに、上手く言葉を返せなかった。
大結界、そして各階に張られている結界には、魔物の暴走を防ぐだけでなく、敷地面積の拡大、床や天井の強化、言語の翻訳など、様々な魔法が施されている。それを維持し、管理出来るのは魔女しかいないのだ。
ギリシャ神話に『パンドラの箱』という話があるが、大結界はその蓋のようなものだ。結界が失われれば、帝都へと魔物が溢れ出し、大図書館は内側から崩壊するという。
故に、大図書館の魔女は外に出られない。
魔女にとって、大図書館は楽園であり、同時に牢獄でもあるのだ。
「そう深刻な顔をするな、誠治。太陽を見ることはなくても、私は太陽を識っている。魔女にとっては、それで十分なんだ」
「それでも、と思うのは、俺のわがままでしょうか」
「エゴイズムだな。だが、嫌いじゃないよ」
アニスの微笑みに、ほっと救われたような気持ちになる。……アニスと姉さんにだけは、嫌われたくないのだ。それこそわがままだが、これが俺の本心だった。
「では、俺はこれからも変化を望み続けます。……ただ、今日から数日は、六階で大人しくしている予定です」
「……まぁ、その方がいいだろうな」
俺への悪評が聞こえているのか、アニスが苦い顔をする。
けれどすぐに、俺へと優しく微笑んだ。
「しかし、変化を起こそうというわりには、誠治は冷静だな」
「……昔、焦って相手を変えようとして、大失敗したことがあるのです。当時の俺は、『変化を恐れる相手には、考える時間も必要である』ということを、知りませんでした。その失敗を繰り返したくないのです」
「希望に燃える熱血漢と思いきや、そうではなかったか。やはり、人間は物語のようにはいかないな」
アニスが微笑みを深め、最後の一冊を持って背伸びをし、棚の一番上へと手を伸ばす――が、届かない。
「本当に興味深いよ。誠治は私の生活に――っと、ととと」
「手伝います」
ふらっとしたアニスの元へ慌てて駆け寄って、彼女を支える。
すると、返ってきたのは真剣な声で、若干ムキになっているのが解った。
「いや、大丈夫だ。後ちょっとで入る――、あっ」
「っと。無理はしないでください」
指先からこぼれ、アニスの頭に落下しそうだった本をすんでのところで受け止めて、本棚へ。
だが、入らない。隙間が狭く、並んでいる本の装丁の違いもあるのか、すっと入っていかないのだ。だから俺は、本棚の本を軽く押して、隙間を広げて――
「せ、誠治、退くからちょっと待ってくれ」
「す、すみません、つい――」
本を戻すと同時に、アニスを本棚へと押し付けるような格好になってしまった。
右手で本を持ち、左手を本棚に伸ばしていたから、腕の中にすっぽりとアニスが納まってしまっている。アニスが怪我をしたら大変だ、という気持ちが優先されていたから、今この瞬間まで、彼女との近さに気付かなかった。
まるで、アニスを抱き締めているかのような距離で――
それを自覚した途端、俺は動けなくなった。
「誠治……?」
アニスが振り返って見上げてくる。
まつげの長さまで解る距離だ。
ふわりと優しい香りがして、それに更に思考が止まるのを感じ――衝動が理性を上回りかけた瞬間、俺は反射的にアニスから距離を取った。
顔が燃えるように熱く、剣の試合の時よりも心臓が跳ねていた。
「ど、どうしたんだ、誠治。様子が変だぞ?」
「い、いえ、別に何も!」
「んー……?」
目の前にやってきたアニスが、俺をじっと見上げてくる。今は視線を合わせられなくて、俺はたじろいでしまった。
普段から、アニスと話す時には若干の緊張があった。アニスは美しいから、見つめられると緊張してしまう――それだけだと思っていた。だが、そうではなかったのだ。
引き合いに出すものではないが、先の金髪の女性は、アニスよりも美人だったと思う。甘く微笑む様はとろけるようで、魅力的に感じる人は多いだろう。だが俺は、彼女に触れたいとは思わない。『綺麗な方だなぁ』とは思うが、それだけだ。
しかし、アニスに対しては違う。違ったのだ。
もっと見つめていたいし、見て欲しいと感じる。アニスに触れて、抱き締めて……と、思ってしまった。
ただ、自分の中に前兆はずっとあったから、すとんと納得出来た部分もあった。
前からそうだったのだ。こうしてアニスに覗き込まれたり、近付かれたりするとドキドキして、そこには緊張だけではない感情があった。
変に思われたくないと思うのも、嫌われたくないと考えるのも、全て彼女のことを意識していたからのものだったのだ。
この気持ちをなんと呼べばいいのか、俺は知っている。
「――嗚呼、」
俺は、アニスに恋をしているのだ。
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