かくあれかし


 地下一階。

「アニス殿のことなのですが」

「アニス? 誰?」



 地下三階。

「アニス殿のことなのですが」

「アニス? 誰の話ですか?」



 地下五階。

「アニス殿のことなのですが」

「アニス? 誰だ一体」 



「アニス殿のことなのですが」

「おい貴様、何を気安く名前で呼んでいる。殺すぞ」

「つ、通じた……!」

 地下六階。片斬殿からの返答に、俺は心の底から安堵していた。

 いや、片斬殿に限ってそれはないと解っていても、問いかけた司書のことごとくに首を傾げられてしまった手前、不安を拭えなかったのだ。

 片斬殿が怪訝そうな顔をする。

「なんなんだ、一体」

「大図書館の司書でさえ、アニスを――魔女を個人として認識していないのだと解って、困惑していたのです」

「ああ、そのことか。……まさかお前、律儀に聞いて回っていたのか?」

「はい。気になってしまったもので」

「好奇心の強さは相変わらずだな。無駄なことをする」

「無駄、というのは……」

「魔女様がそれを必要としていないんだ。無駄と言わずなんという」

「では、『片斬』も同じだと?」

「当然だ。片斬は、ただ本を斬る刀であればいい。個による区別、力量の差などあってはならない。そのくらい、お前にも解っているだろう?」

「それは、そうなのですが……」

 男女問わず誰であろうと、学校の教師は『先生』で、制服の警官は『お巡りさん』、図書館の職員は『司書』だ。俺とて、他所から見れば『軍人』でしかない。芸能人とは違うのだ。個人として認識される必要がない以上、通称で呼ばれるのは当然で、それに不満はない。間違いなく、俺は軍人なのだから。

 それでも、アニスという個人が認識されていない現状に、不満がある。

 自分でも理由はよく解らないが、胸の底にモヤモヤとしたものがくすぶるのを感じた。

「不服そうだな、誠治」

 二人きり、だからだろうか。何気なく告げられた言葉に驚き、安堵しながら、俺は言葉を返していた。

「アニスだけではありません。俺としては、姉さんの名が大図書館に響いていないことにも、不満を覚えます」

「弟の贔屓目だな。私はお婆様の足元にも及ばない」

「謙遜がすぎます」

「自負するには、あと五十年足りんよ」

 俯きがちに言って、姉さんが刀の柄にそっと触れた。


『片斬』という役職は、他の司書とは一線を画している。

 片斬と成った者は、死ぬまでこの大図書館で働き続けるのだ。


 人間の感じられる『世界』は、自身が知覚出来る範囲内でしかない。地球の裏側にも人が住んでいると知識では解っていても、普段生活している限りではそれを想像出来ないものだ。

 それと同じように、片斬にとっての『世界』は、この大図書館内で完結している。『大図書館の外など、あってもなくても変わらない』と考えているのだ。

 そんな片斬が、司書の頭目なのだ。俺という外からの異分子に対し、司書が嫌悪感を示すのは仕方がなかった。だが、俺はその『世界』を変えにきたのだ。

 今までの片斬相手では不可能だっただろう。

 しかし、相手は片斬・舞――俺の姉弟子だ。

 彼女には、俺という『外との接点』が存在している。

 唯一の、とても頼りない――でも、五年経った今でも忘れずにいてくれた、確かな繋がり。

「――姉さん」

「なんだ、愚弟」

「姉さんからすれば、俺は『世界』を壊しにきた侵略者なのでしょう。――ですが、俺は貴女の弟です。例え世界が終わろうと、それは絶対に変わりません」

「だから、信じろと?」

「いえ。だからこそ、俺は行動するのです。姉さんに信じてもらう為に」

「――ハッ、お前は変わらないな。そういうところが、本当に――……まぁ、いい。私は私の世界を、大図書館を護る。それだけだ」

 つまらなそうに、けれど口元に僅かに笑みを浮かべて、片斬殿が姿を消す。

 どちらに消えたのか、まだ目で追うことは出来なかった。


 だが、今も弟として接してくれると解ったのは、大きな収穫だった。それに甘えるつもりは全くなく、むしろその逆だ。

 片斬殿を『姉さん』として扱っていいのならば、俺はより自由に、全力で行動し、ぶつかっていける。

 逆立ちをしたって敵わないのが、俺の姉さんなのだから。



 

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