かくあれかし
地下一階。
「アニス殿のことなのですが」
「アニス? 誰?」
■
地下三階。
「アニス殿のことなのですが」
「アニス? 誰の話ですか?」
■
地下五階。
「アニス殿のことなのですが」
「アニス? 誰だ一体」
■
「アニス殿のことなのですが」
「おい貴様、何を気安く名前で呼んでいる。殺すぞ」
「つ、通じた……!」
地下六階。片斬殿からの返答に、俺は心の底から安堵していた。
いや、片斬殿に限ってそれはないと解っていても、問いかけた司書のことごとくに首を傾げられてしまった手前、不安を拭えなかったのだ。
片斬殿が怪訝そうな顔をする。
「なんなんだ、一体」
「大図書館の司書でさえ、アニスを――魔女を個人として認識していないのだと解って、困惑していたのです」
「ああ、そのことか。……まさかお前、律儀に聞いて回っていたのか?」
「はい。気になってしまったもので」
「好奇心の強さは相変わらずだな。無駄なことをする」
「無駄、というのは……」
「魔女様がそれを必要としていないんだ。無駄と言わずなんという」
「では、『片斬』も同じだと?」
「当然だ。片斬は、ただ本を斬る刀であればいい。個による区別、力量の差などあってはならない。そのくらい、お前にも解っているだろう?」
「それは、そうなのですが……」
男女問わず誰であろうと、学校の教師は『先生』で、制服の警官は『お巡りさん』、図書館の職員は『司書』だ。俺とて、他所から見れば『軍人』でしかない。芸能人とは違うのだ。個人として認識される必要がない以上、通称で呼ばれるのは当然で、それに不満はない。間違いなく、俺は軍人なのだから。
それでも、アニスという個人が認識されていない現状に、不満がある。
自分でも理由はよく解らないが、胸の底にモヤモヤとしたものがくすぶるのを感じた。
「不服そうだな、誠治」
二人きり、だからだろうか。何気なく告げられた言葉に驚き、安堵しながら、俺は言葉を返していた。
「アニスだけではありません。俺としては、姉さんの名が大図書館に響いていないことにも、不満を覚えます」
「弟の贔屓目だな。私はお婆様の足元にも及ばない」
「謙遜がすぎます」
「自負するには、あと五十年足りんよ」
俯きがちに言って、姉さんが刀の柄にそっと触れた。
『片斬』という役職は、他の司書とは一線を画している。
片斬と成った者は、死ぬまでこの大図書館で働き続けるのだ。
人間の感じられる『世界』は、自身が知覚出来る範囲内でしかない。地球の裏側にも人が住んでいると知識では解っていても、普段生活している限りではそれを想像出来ないものだ。
それと同じように、片斬にとっての『世界』は、この大図書館内で完結している。『大図書館の外など、あってもなくても変わらない』と考えているのだ。
そんな片斬が、司書の頭目なのだ。俺という外からの異分子に対し、司書が嫌悪感を示すのは仕方がなかった。だが、俺はその『世界』を変えにきたのだ。
今までの片斬相手では不可能だっただろう。
しかし、相手は片斬・舞――俺の姉弟子だ。
彼女には、俺という『外との接点』が存在している。
唯一の、とても頼りない――でも、五年経った今でも忘れずにいてくれた、確かな繋がり。
「――姉さん」
「なんだ、愚弟」
「姉さんからすれば、俺は『世界』を壊しにきた侵略者なのでしょう。――ですが、俺は貴女の弟です。例え世界が終わろうと、それは絶対に変わりません」
「だから、信じろと?」
「いえ。だからこそ、俺は行動するのです。姉さんに信じてもらう為に」
「――ハッ、お前は変わらないな。そういうところが、本当に――……まぁ、いい。私は私の世界を、大図書館を護る。それだけだ」
つまらなそうに、けれど口元に僅かに笑みを浮かべて、片斬殿が姿を消す。
どちらに消えたのか、まだ目で追うことは出来なかった。
だが、今も弟として接してくれると解ったのは、大きな収穫だった。それに甘えるつもりは全くなく、むしろその逆だ。
片斬殿を『姉さん』として扱っていいのならば、俺はより自由に、全力で行動し、ぶつかっていける。
逆立ちをしたって敵わないのが、俺の姉さんなのだから。
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