魔女の思い
「あとな、私のことは呼び捨てで構わんよ」
「では、アニス」
途端、アニスの眉がぴくりと上がり、嬉しそうに微笑んだ。
「なんだ、誠治」
名前で呼ばれ慣れていないのか、そうした小さな仕草の一つ一つが可愛らしい。
胸が温かくなるのを感じた。
「アニスには、好きなお菓子などはありますか? 気の早い話ですが、駐屯地へ報告に戻る際、何か買ってこようと思っているのですが」
「お菓子か。和菓子も洋菓子も好きだが、大概のものなら地上一階の売店で買えるからなぁ。改めて言われると迷うな」
「えっ、売店があるのですか?」
「あるぞ。日用品も売っているし、食堂や服屋もある。誠治の部屋の冷蔵庫の中身は、全て売店で買い付けたものだ」
「あ、あんなにも豊富な食材が揃うのですか」
和洋中、何でも出来そうでテンションが上がったほどだ。寮の近くにあるスーパーよりも、品揃えがよさそうな予感がした。それに驚く俺に、アニスが笑みで頷いた。
「地上三階には、司書学校や病院もある。この大図書館の中で、都市生活を営めるだけの施設は揃っているんだ」
「もはや街ではありませんか」
「むしろそれ以上――独立した国家だな。ここが治外法権の場所なのは、帝都でも有名だろう?」
「はい、確かに有名な話です。ですがそれは……片斬家の、大図書館の保守・機密主義を揶揄したものだと思っていました」
「いいや、事実だよ。ここは日本国内の施設ではあるが、館内では日本国の法は効力を発揮しない。故に――っと」
浄化の終わった、二百冊以上の本がふわりと浮かび上がり、隊列を組んで外へと飛んでいく。そして入れ替わりに、同程度の本が執務机の周囲を埋め、再び浄化作業が始まった。
「故に大図書館には、罪から逃れようとする犯罪者が紛れ込む場合がある。そうした相手を、司書は斬っていいことになっているんだ。誠治がここに現れた日、舞が過剰に反応したのはその為だな。まぁ、流石に細切れにはせず、無力化後、捕縛してから警察に突き出す……はずだ」
アニスの言葉に、思わず苦笑する。『細切れにしない』と断言出来ないのが、片斬殿なのだ。
「そうした事情もあって、ここは外とは常識も考え方も違う場所だと思った方がいい。この地下六階には私と舞しかいないから、それを感じ難いかもしれないがな」
「思っていた以上に、学ぶことが多そうです。ですが、どうして地下六階にはアニスと片斬殿しかいないのですか?」
「私がいれば、大概の問題は対処出来るからだ。逆に言えば、私がいないと対処出来ないような問題は、地下五階より上では絶対に起きないし、起こしてはならない。司書は誰もが帯刀の義務を持つが、片斬の存在もあって、ただ差しているだけの者も多いんだ」
アニスが作業の手を止め、顔を上げる。そこには複雑そうな色があった。
「……館内には魔法転移を防ぐ結界を張り、侵入や盗難対策を万全に行っている。だが、魔物退治だけは話が別だ。如月隊の力を借りられるのであれば、司書の仕事は大きく変わるだろう。戦える者が戦い、そうでない者は事務や利用者の応対を行えばいい。――いや、今だってそうしているんだ。もっと作業を効率化出来るようになって、本の浄化速度も進むかもしれない」
「それなら――」
「――だが、そう上手くはいかない。片斬は言わずもがな、司書達にもプライドがある。それは、何よりも如月隊には穢されたくないものだ。変化を起こすにも時間がかかるだろうな」
「……、……」
「諦めるか?」
「――いいえ。俺は、俺に出来ることを一つずつやっていくだけです。それが一番の近道だと思いますから。だからまずは、ココアを淹れてきます」
「急がば回れ、か」
アニスが微笑み――すぐに、やや意地悪な顔をした。
「だが、善は急げという言葉もあるぞ?」
「そ、それは……――そう、急いてはことを仕損じますので」
「なら、好機逸すべからず、だ。司書との和解は、一朝一夕で成しえるものではない。根を詰めすぎないようにな」
「ご教授、痛み入ります」
例え魔法を使っても、こじれた人間関係や、歴史の重みは変えられない。
感情に根ざす問題を、それこそ魔法のように解決出来る手段など存在しないのだ。
だが、どんな無理難題であろうとも、行動しなければ変化は起こせない。
その為の一歩が、俺の出向なのだ。諦めるという選択肢は、俺の中にはないのだった。
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