婚礼
そんな恐ろしい夢を見てから、約5カ月が過ぎ。
春がやってきた。
早めの桜が満開になった、3月25日。
弓月の17歳の誕生日だ。
静かな夕方。
白宮稲荷神社の一番奥にある、普段は開かれることのない小さな社に、火が灯った。
厳かな宮司の装束を身につけた弓月の父が、静かな足取りで社の扉の前まで歩を進め、しきたりに従った身のこなしで深く礼をする。
静かに扉を開き、社の中へと入っていった。
2時間ほど経っただろうか。
固く閉ざされていた扉は、夜の帳に再び大きく開かれた。
燭台に蝋燭が灯された社の奥には、眩しいほどの
本来ならば、宮司と花婿、その親以外は決して入ることの許されない婚礼の日の境内で、私はその時を待っていた。
白宮家の両親へ詳細を話し、これから私のすることを全て許された上での行動だ。
ただ——私がここにいることを、弓月は知らない。
彼に話せば、間違いなく反対されるからだ。
私は手入れの行き届いた家伝の槍を携え、防具を身につけている。
社の脇の茂みに潜み、婚礼の様子をじっと窺う。
祝詞が唱えられ、やがて彼らが契りの盃を交わす直前——
宮司の右手が、私に向けてすっと上がった。
「————待ってください」
我慢を重ねた思いが、堰を切ったように溢れ——
社の庭へ足を踏み出しながら、私は自分でも驚くほど鋭く通る声で、花嫁に向かい言葉を放った。
弓月がはっと顔を上げ、こちらへ視線を向ける。
「————
そなたは、何者だ」
世にも美しい稲荷の化身は静かに立ち上がると、凍りつくような漆黒の瞳で私を見据えた。
「雨竜 美弥と申します。
稲荷様に、勝負を申し込みに参りました」
稲荷は、紅色の唇を美しく引き上げ、淡く微笑む。
「——私は、ここの主の稲荷だ。
……そなた、この婚礼の席で、私と勝負したいと申すか。
——ああ。そうだ。
これまでにも一度……
何代か前の私の先祖が——婚礼の際、やはり人間の男に戦いを挑まれたと聞いたことがある」
「——その者は、我が雨竜家の者でございます。
それ以来我が家には、このように稲荷様に勝負を申し込む時のために、武術を身につける習わしがございます」
「ほう。
面白いことを言う娘だ。
しかし——
この勝負がいかに愚かなことか、そなたも知っておるだろう。
なぜ、私と戦う?」
「彼を——弓月を、失いたくないからです。
彼がいない世界では、自分の生きる意味が見つからない——そう思ったからです」
私の言葉に、弓月は驚いたような眼差しを私へ向ける。
それでも、私に躊躇は起こらない。
この5ヶ月の間で、私の中に強く固まった想いは、もうどんな事にも決して揺るがない。
「……生まれたその時から、私の花婿になることが決まっているこの者を——そなたは好いておるというのか?」
「——この思いが、そういう言葉になるのなら……そうなのだと思います」
私の返事に、結はさも可笑しそうに高く笑い出した。
「安心せよ。
花婿がここを去った後は——彼の家族以外の全ての者の記憶から、彼は消える。
そして彼の記憶からも、家族以外の者は全て消えるのだ。
わかったか?
明日には、彼がこの世界にいたことすら思い出せないのだから——そなたの胸にも、一切痛みは残らぬ」
「————嫌」
「何?」
「————そんなのは、嫌です。
尚更嫌だ。
それだけは、許さない。
——絶対に、そんなことはさせない」
沸き起こる怒りに、私は無意識に槍を構える。
「さあ、勝負しなさい。
——私の前に降りて来なさい」
穏やかな佇まいをとうとう崩し、結は不敵な微笑を浮かべた。
「——いいだろう。
ただ……人間との勝負には、決まり事がある。
我々は、人を殺さぬ。
——この装束と槍を使え」
結は、すっと宙へ手を
すると、その手の中に、美しい白装束と水晶のように輝く槍が現れた。
「この槍は、命を奪うことも、傷つけ痛みを与えることもないが——
槍が身体に触れた分だけ、流れるはずの血の色がその白装束を染めていく。
先にその布が隈なく血に染まった者が負けだ。——いいな。
私も、人間との勝負に霊力は使わぬ。
もしもそなたが勝てば……このつまどいは取り下げよう」
「……わかりました」
その布は、私が手にした途端身体に巻きつくように私の防具を消し去り、一切緩みのない心地よさで美しく私の身体に着付けられて行く。
気づけば私は、結と同じ薄い白装束で槍を脇に置き、彼女と対面して社の庭に座っていた。
*
二本の槍が、ガツっと凄まじい勢いでぶつかり合った。
視線が、お互いを深く突き刺すように交差する。
今日までの殆ど全ての時間を、父との稽古に費やした。
鍛錬の一瞬一瞬に、魂を込めた。
神に戦いを挑むなど——
ともすれば逃げ出しそうになるその心を、全力で奮い立たせながら。
——負けられない。
絶対に。
自分の肩を、脇腹を、結の鋭い槍が掠めていく。
渾身の力で繰り出す槍が、彼女の首筋を、胸元を掠める。
鋭い衝撃にはっと思うと、自分の装束にぱあっと新たな血の色が滲む。
心臓は壊れるかというほどに暴れ、息が大きく乱れる。
だが、鍛錬の成果か、結も次第に苦しげな表情になり、その装束も次第に紅く染まり始めた。
互いに、ふとした瞬間に姿勢が傾き、がくりと膝が揺らぐ。
それでも、互いに身体に残る力を振り絞り、槍を繰り出し続けた。
「————……」
一瞬だけ——
私の目が、弓月を捉えた。
膝に拳を握りしめ——今にも泣くかのような眼差しで私を見つめる、言いようのない思いの籠った弓月の瞳。
幼い頃の——守りたいと思った、あの日のままの瞳。
その眼差しに、研ぎ澄ました私の中の何かが、ほんの僅かに途切れた。
「あ——……」
そう思った時には、既に結の槍が、私の心臓を深く貫いていた。
残っていた白い布の色が、真っ赤に染まっていく。
その強烈な衝撃に、力を使い果たした身体は耐えることができず——
私は、そのまま地面にどっと倒れ込んだ。
「——勝負あった」
乱れる息を抑え、槍を静かに置くと、結が低く告げる。
「これにて、婚礼の儀は滞りなく済んだ。
さあ——弓月殿、こちらへ。
宮司、我々はそろそろ神の世へ参ります」
「——……」
弓月の父が、痛みを堪えるように微かに頷きかける。
「————
少しだけ、お待ちください」
その瞬間——
弓月が小さく呟いた。
「この者は——
私の、大切な友です。
最後に、別れの言葉を」
静かに頷く結に淡く微笑み、弓月はゆっくりと私に近づくと、片膝をついて私の上に身を屈めた。
「——美弥。
俺の声、聴こえるか」
もはや身体を一切動かすことのできない私は、彼を見上げた瞳を微かに動かして頷く。
「お前さあ……
ああいう大事なことは、何でもっと早く言わないんだよ?」
「——……」
照れたくても、身体が反応しない。
一言すら、唇から出すことができない。
「……なあ、美弥。
——俺のこと、ずっと忘れないでいてくれるか?」
弓月の言葉に、私は必死に瞳で頷く。
忘れない。
例え記憶が全て消されたとしても……絶対に、あなたを忘れない。
私の返事に、弓月は嬉しそうに微笑んだ。
そして、その懐から白い布に包まれたものを静かに取り出した。
「……やっぱり、これ持ってきてよかった」
独り言のようにそう呟きながら、布をはらりと解く。
そこから現れた鋭く輝くものを、弓月は大きく振りかぶる。
そして、自らの胸へ激しく突き立てた。
……弓月。
今、何を——?
それを境に、私の意識も急速に遠くなっていく。
「——弓月————!!」
「弓月殿——!」
いくつもの悲鳴が境内に響く。
桜の花びらが、狂った吹雪のように止めどなく舞い散る。
温かなものを滴らせながら、弓月は私の上に静かに身を伏した。
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