狐のつまどい

 矢も盾もたまらず、私は朝食もそこそこに家を飛び出した。

 そして、白宮家の玄関付近で、弓月が出てくるのを今か今かと待った。


 暫く経つと、弓月が出てきた。

 彼の姿を見て、思わずほっと大きな安堵のため息が漏れる。

 その勢いで、すかさず声をかけた。


「弓月、おはよう」


「あ……

 おはよう、美弥」


 弓月は、驚いたように私を見て、そう返す。


 私は彼に走り寄り、他人に漏れ聴こえないように切り出した。



「——弓月。

 良かった。安心した。


 あのね……

 私、昨日変な夢見て……怖くて。

 弓月、どっか行っちゃったんじゃないかって……」


 奇妙な緊張が舌に絡みついたように、言葉がうまく纏まらない。

 だが——それを聞いた弓月の顔がみるみる青ざめていくのを見て、私は一層どす黒い不安に駆られた。



「美弥……

 昨日、夢で——何を見たの」



「——あ……

 あの……

 白い狐が……美しい女の人に姿を変えて……

 それで……

 ……弓月に、つまどいを——」



「————」



 しどろもどろにそう説明する私を、弓月は恐ろしいほど真剣な目でじっと見つめた。



「……俺も、それと全く同じ夢を見た。


 美弥。

 今日の放課後、時間作れないか。

 ——一緒に、うちに来て欲しい」



 青ざめたまま、彼は私の肩に手を置き、小さく呟く。

 微かに震えるその声と指先に——私の恐怖感は、もはやこれまでとは比較にならない大きさで胸を押し潰しそうになっていた。









「——それは、我が神社の稲荷の化身だ」


 弓月と私の夢の話を聞いた弓月の父は、難しい顔をしてしばらく黙り込んだ後、小さくそう答えた。



「……

 稲荷の……化身……」


 その言葉に、私の思考は凍りついたように固まった。



「弓月には、一度話したことがあると思うが——

 我が稲荷神社には、古くから言い伝えられていることがあってな。

 数百年に一度、稲荷が美しい男の姿で現れ、我が家の血を継ぐ娘を妻として貰い受けていく——と。

 求めを拒めば、神は怒り、人々に災いが起こる……だから、稲荷のつまどいは拒めないのだ、と。


 娘が17歳を迎える日に、神社の最奥にあるやしろにて婚礼が行われる——

 我が家に伝わる記録には、そう記されている」



 父の話に、弓月は微かに肩を震わせ——独り言のように呟く。


「————

 ……それは、あの女も言っていた。

 17歳の誕生日に……今度の3月25日に、迎えに来ると。


 ——こうなってみて、初めて合点がいく。

 うちが代々武術を身につけられず、花嫁修行のような稽古をさせられるのは……そのせいなのか。


 稲荷がいつ妻を貰い受けに来てもいいように、子供を稲荷の妻として育て——その求めに力で逆らうことができないよう、封じ込めていたのか」


「少なくとも、これまでの記録では、稲荷の化身は全て男だった。

 女の姿の稲荷が、婿を求めて現れるなど——決してないと思っていたのに」


 苦しいものを吐き出すようにそう言うと、父は悲しみに打ち沈んだ表情で俯いた。



「でも……

 美弥も、昨夜同じ夢を見たというのは……

 何か、意味があるんだろうか?」


 弓月の呟きに、父は答えず——俯いていた顔を上げると、弓月にまっすぐ視線を向けた。



「弓月。

 お前の気持ちは——どうなんだ」



「…………

 俺の気持ち?」


 父の言葉に、弓月は静かに目を上げると、微かに口元を引き上げて微笑む。



「そんなもの、父さんに伝えたとして、何になるんだ」




 その細く消え入りそうな呟きに——父の膝の上の拳が、不意に強く握られた。


「——本心を言うがな。

 私も、お前をどこかよくわからぬ異次元へなど、連れていかれたくはないのだ。

 いかに神に仕える立場といえど、愛する子を奪われる親の怒りと悲しみくらい、露わにしたとて許されるだろう。


 叶うならば——私も、神がお前を諦めるというその奇跡を、望んでいるのだ」





 ——ずっと隣にいたはずの、幼馴染が。

 次の春が来たら……美しい稲荷の元へ、婿入りをする。



 そうなれば——もう、二度と彼には会えない。




 この信じ難い事実に向き合う父と子の苦しいやりとりを、私はただ黙って聞いていることしかできなかった。









 昨夜見た夢と、今の会話の内容は、決して口外しないでほしい……弓月からそう固く口止めをされ、私は呆然としたままふらふらと帰宅した。



 自室でどさりと鞄を下ろし、激しい胸のざわつきを抑えられないまま、ベッドに座り込んだ。


 ただ座っていても、頭にはぐるぐると同じことしか回らない。

 このままでは思考は一層混乱し、おかしくなりそうだ。


 その苦しさに耐えかね、私は道場へ駆け込むと父に稽古を申し出た。




「右腕、もっと締めろっ!!」

「何度言えばわかるんだ!? お前は勝つ気があるのか!?」


 父の指導の声が、どうしても頭に入らない。

 繰り返し鋭い槍に突き返され、どっと畳に倒れ込む。


 歯の立たない壁にぶち当たるような、やりきれない思い。

 その痛みが、今の自分自身の苦しさに重なり——思わず、涙が零れた。




「——槍を下ろしなさい」


 気づけば、父の眼差しが面の奥の私の瞳を強く捉えていた。



「……美弥。

 何か、あったのか」


 静かに、そう問いかけられる。




「————父さん」


 その温かい声に、涙はもはやとめどなく溢れ出す。

 震える手で面を外し、私は、昨夜から自分が見聞きした事実を父に全て打ち明けた。

 父と自分だけの秘密にしてほしい、という約束で。


「……

 私、思い出したの。

 昔、弓月が『女の子みたい』って男の子達に言われて悔しそうにしてる顔を見て——その時に私、強くなりたいと思ったんだ。

 弓月のために、強くなりたい。

 弓月のためになら、強くなれる。

 弓月が隣にいるから、毎日笑えるんだって……今日、はっきり気づいた。


 弓月がいなくなるなんて——嫌だ。絶対に」



 私のそんな苦しい言葉を、父は暫く何か深く考え込むように聞いていたが——やがて、静かに話し出した。



「……美弥。

 我が家の先祖に、一人だけ——白宮家の娘を守るために、稲荷の化身と戦った武術の達人がいる。

 その者は辛うじて勝負に勝ち……稲荷は妻を貰い受ける事を諦め、神の世へ戻ったという。


 ——この雨竜家に香取神道流を習得するならわしが起こったのは、そこからなのだ」





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