第9話 悪夢

『これは夢』


 温度のない炎の前で私はそう呟く。


 絶望が始まった日。炎の奥ではあの日の私が奥様とクリム様を戦場から逃がそうと奮戦している。


 白霊虎の先祖返りたる私にはそれだけの力があった。だから、私は地獄と見紛う悪夢の間をすり抜けるようにして走っていく。


 獣魔族に掴まれた誰かの髪が力任せに引き千切られ、所有者の表皮と白い肉と共に宙を舞っている。

 靴のついた脚が布と化したレギンスに絡まり膝から下だけになって鮮血の池の中心で捨てられている。

 肉も骨も関係なしに食い千切り、咀嚼して口から血を滴らせながら笑う化物がいる。

 殺すなら私だけに、頭を狙ってくれとお腹を膨らませた女性が乞い願い、頭から呑まれていく。

 肉や内臓の一部だけを食われて死を願う者がすすり泣く。


 見るもの、聞くものの全てが最悪の演目。その上演が行われている劇場は戦線を破った獣魔族に人類が抵抗していた拠点だった。人類が敗北し、この地を襲った獣魔族、そして敗者の不幸を嗤う悪魔たち以外のあらゆる存在に見捨てられたある町の光景。


 私は二人を連れて走り続ける。白霊虎の咆哮は幼い私の姿でも目の前にいる並の獣魔を退けた。先祖の力は少女の私を戦鬼へと変えてくれた。


 だから、私は彼女たちを守れる。その身が血に染まり、例え家族と言ってくれた彼女たちに怯えられることになっても。彼女たちが無事ならば……その一心で我武者羅に走り抜けた私にとっての戦場。


「あぁ……」


 そこに、嫌に聞こえの良い溜息が聞こえた。これは、今の私の声。それを合図としてか悪夢の中に戦い抜いた私たちの前に獣魔族ではない、人類が現れる。戦いを終えて気を緩める私。その私の姿を空から眺めている今の私が見て再び声を漏らす。悪夢はそこで終わっていないのに。何故、気付けないのかと。


 獣魔族の追手と戦い、私たちを誘導してくれる人たち……


 ……私は、夢の中に居る私に彼らについて行かないように叫ぶ。これが夢で、届かぬ想いと知りつつ。


 しかし、夢はここで終わるようだ。外の世界で何者かの気配がしている。それを警戒する意識が急速に浮上し、この世界は強制終了させられている。


 ―――目が覚める前、この悪夢を現実へと持ち帰り忘れる前に私が見た最後の光景は……騙されたことにも気付かずに、助かったと安堵する私の……唾棄すべき笑顔だった。




「……っ! はぁ……」


 目を覚ました時、あまりの気分の悪さに私は溜息をつきながら上体を起こした。同時に、酷い喉の渇きを覚えて静かに立ち上がる。趣味の悪い家具が立ち並ぶ部屋で主面をしている広いベッドの中、空は既に傾いているというのにお嬢様はまだ眠っている。尤も、彼女自身も別にお嬢様のことを言えるような立場ではないが。


「ふぅ……」


 水を飲み、一息つく。いつ汲み上げられたのか不明な水桶から汲み上げた生温い水はお世辞にも美味しいとは言えなかった。だが、喉の渇きを癒す働き程度はしてくれる。少し落ち着いた私は先程まで自分がいたベッドの端で静かに眠るお嬢様を見に戻った。彼女にもベッドは与えられていたはずだが、いつ間にかこちらに来ていたらしい。


(……まだ、怖いんですね……)


 彼女がいる場所、そして私がいた場所。その距離に私の胸が小さく締め付けられた。彼女がこのベッドに入った理由は恐らく不安から。その不安の原因は明白で、慣れない環境と彼女の母がいないこと。これ程までに多大なストレス、屋敷にいた頃の彼女であれば私にくっ付いて離れなかったことだろう。


 だが、あの悪夢の日を越えてから彼女は私にも怯えている。血に濡れ、獣魔族を相手に咆哮を上げる私に怯えない道理がないだろう。それでも他に縋る者がないからこそ、彼女は安らぎを求めて同じベッドに入り……同時に距離を置いているのだろう。決して、面には出さないように気を付けているが。


(……でも、今はそれを考えている暇はない、か……)


 彼女を慰めるためは頭を撫でるのがいい。だが、既に血に塗れた私の手では彼女を汚してしまう。血に濡れた手を幻視して思い止まった私は出しかけていた手を降ろし、ドアの前に移動する。


「……ドアの前にずっといらしているお客人。何用でしょうか?」

「流石は白霊虎の末裔。勘付かれましたか」


(よく言う……)


 隠れるつもりもなかっただろうによく言うと思いつつ、声からここの館の主に仕えている男と判断しておく。彼は私の考えることなどお構いなしかのように続けた。


「さてシャロ様、お休みのところ申し訳ございませんが旦那様がお呼びです。貴女が知りたがっていたことを教えるとのことですよ」

「! ッ、……奥方様のことですか?」


 動揺するも自分だけが呼ばれたことが気にかかる。同時に、未だ眠りに就いているお嬢様のことを考えると大声を出すのも憚られたため、小声でそう返した。男は白々しい声で応える。


「その通りでございます。ただ、少々問題がございまして……まずはシャロ様だけということです」

「……分かりました。お嬢様に伝言をしたためますので少々お時間を」

「畏まりました。15分後にお伺いいたしますのでご準備を」


 気配が遠ざかっていく。


「クリム様……」


 ここに彼女だけを残していくことは躊躇われた。私の目に映るのは装飾品にしてはあまりにも無骨な首輪。人間の尊厳を制約する枷……奴隷階級の証である隷属環だった。同じものが私にもついている。こんな物をつける相手がいる場所に大事なお嬢様を一人置いて行くなど……

 だが、躊躇っていてもどうしようもないのも事実。今、お嬢様が求めているのは安心。不甲斐なき私にはそれをもたらすことが出来ない。それならば私がすべきことは決まっている。彼女が全幅の信頼を置く奥方様と再会させ、お嬢様の不安を払拭する事だ。


「行って参ります。吉報をお待ちください……」


 短く要点だけを綴ったメモを残して、私は男が再びこの場所……奴隷市場の主が自らの欲を満たすために作った色事専門の拷問を行う部屋に現れるのを待つ。程なくして、奴は戻って来た。その気配を感知した私はノックを待たずに外に声をかける。


「では、参りましょう。マドルゲ様がお待ちです」

「……えぇ」


 耐衝撃用の魔術で鍵をされた部屋。お嬢様が一人で脱出するのは不可能だろう。別段、それを望んでいる訳でもないがぼんやりとそんなことを思いながら私は部屋を後にした。


「それにしても、白霊虎という種族は凄いですねぇ。私もそれなりに腕の立つ方だと思っていましたが、少々自惚れが強かったようで」


 道中、男が私に話を向ける。だが、その態度は魔銃を構えた人間が安全距離から動物の牙や爪を賞賛をするような絶対的な優位を込めたようなものだった。返事のしようがない言葉に私は黙ったまま歩みを進める。


「そんな方がいるというのに一山いくらの隷属環をつけるというご無礼、大変申し訳ございません。貴女方を連れて来た者たちは腕は立つのですがいかんせん常識が欠けておりましてね……例えば、事前に連絡もなしに急に現れては金だけせしめて急にいなくなる。当商館に雇われているというのに平気で別の場所に人を売りに行く。貴女方の保護者の方を見つけるのに時間がかかったのもこれが原因でして」


(おしゃべりな男……恩着せがましく喋ってるけど、大事な人を物扱いされて機嫌がよくなるわけがない。気付いてないの……?)


 不快感を殺して表情を固める。幸か不幸か、私の顔は無表情と言われる。付き合いの浅い人間に表情を読まれることはないだろう。だが、身体は別だった。無意識の内に歩みが早くなっている。


「マドルゲ様はそれはもう苦労して探し当てました。そして遂に奴隷娼館に身を窶していた貴女の探し人を見つけたのです。それを理解した上でどうぞ、このマドルゲ様の部屋にお入りください」


 ある部屋の前で慇懃に腰を折ってみせる男。目的地に着いたのかとシャロが思ったのと時を同じくして扉が開かれる。


(奥方様、どうかご無事で……)


 祈るような気持ちでシャロは、部屋の中へと進んで行った。



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