第33話 マーナ1-1
セリなんてあたしとおんなじだったのに。
教会へ行った日、セリとあたしは初めて「勉強」に触れた。今までだって物を数えたりしてたけど、それと数字は一致しないし、文字はもう数が多くでどれがどれだか。こんなことが本当に必要? 今までなくても困らなかったし家で誰かが使っているのを見たことない。ただ、村長様は半年に一度やってくる役人さんに紙の束を渡していたので偉い人は必要なんだろう。あたしは別に偉くないし偉くなる予定もない。
なのにハルタとセリはすぐに覚えた。
街に馴染み、あのひとに懐いたセリ。信じらんない。『顔は怖いけど喋ると楽しいよ』なんて問題じゃない、あのひとはひとごろしだ。
あの夜。仲介人を馬車に放り込みながら、そのうちのひとりをちらっと眺めて、次の瞬間ナイフでお腹を抉った。表情一つ替えずに。服に真っ黒な三角形の影ができる。その人のシャツの裾でナイフを拭って、馬車から降りてくるまでほんの数秒、それを見てたのはあたしひとり。
こわい。
どれだけ朗らかに笑われようと、ぐったりとぼやかれようと、あのひとはほんの一瞬で人を殺せる人だ。
助けてもらった自覚はある。けど、山羊を潰す父さんの手際よりも素早いその姿は拭えなかった。
「ネーヴァンジュ、あたし外に働きに行きたい。この街にいるのは落ち着かない」
あのひとが債権者なのはわかっていたけど、娼館での下働きをしている今ならおかしくないはずとネーヴァンジュに願い出た。本当は村に戻りたい。土を耕して獣を捕る暮らしに戻りたい。でも帰れないなら、せめてどこか、農家に。
勉強はどうあっても身につく気がしなかったし、街はせわしく人だらけだ。裏庭の家畜は扱えなくもなかったけど、馬も平気なノイルがその位置を確保してたし、ましてや隣で開店予定の食堂の下働きに移るのは嫌だった。あのひとが視界に入る。そして姫を目指すには小さすぎた。あと7年もあのひとから離れられないなんてありえない。
ネーヴァンジュは困ったねと笑いながらハーケルンを呼んだ。その後、ほとんどタダ同然でよければ住むところを用意してくれるという農家を紹介してくれた。実際にハーケルンに連れられて出向いたときはあたしがあんまり小さいんで驚いてたけど、とにかく受け入れはしてくれた。農閑期には戻されると最初に説明を受けたけれどしょうがない。あたしができる冬仕事はまだあまりないのだ。
自分が思っていたよりなにもできなかった。来年も来ていいよと言われるために必死で走り回った。収穫祭を終えて冬支度に入って、秋の後月に街に戻される。ネーヴァンジュの館で下働きしながら春の迎えを待つ。このあたりは村のような雪はないけれど冷たく厳しい風が土を凍らすので植物は育たない。はやく、はやく春よ来い。街は嫌い。
隣の用事を言いつけられてもできるだけ他の子に頼んだ。あっちには行きたくない。ある日、そんなあたしをニンスが部屋に呼びつけた。
「マーナもホーリと一緒に教会に行けばよかったのに。ササヅキがどうにかしてくれたでしょう」
ニンスはすっかり姫見習いとして姫について仕事していて、ここに来た当初の、他の店でもいいからすぐ働きたいとニヤニヤしてた田舎の子は態を潜めてた。そう、みんななんだかんだ言ってもこの街に馴染んでる。ニンスに与えられた部屋は2人部屋で、もう1人のエッダはお遣いに出されている。そんなタイミングで呼ばれたのであたしは本心を伝える。
「嫌だよ、あのひとに余計な恩を作りたくない」
「マーナってほんとうにササヅキ嫌いなのね」
「ニンスもササヅキ嫌いでしょ」
片眉を上げて唇が弧を作る。それから以前の口調で答えた。
「えー、違うよお、ササヅキじゃなくて男全般好きじゃないだけ。嫌ってないよ」
「……そうなの?」
早く働きたい理由がサッサと借金を返して開放されたいだったから、ササヅキの庇護にはいたくないという意味だとなんとなく思っていた。なんだ、違うのか。
「ササヅキは悪い人じゃないでしょ。でも返済を成人まで凍結されたのは誤算だったな。男に借りを作りたくなかったのに。他の店の話は失敗だったわー。あの人意外に常識人だよね。まああと2年我慢するけど」
悪い人じゃないとか常識人とか。そうじゃない、それは全部一緒くたにあのひとの中にあるから余計嫌なのだ。
あたしの訥々とした呟きをニンスは頷きながら聞いていた。そして。
「殺すのも殺されるのもよくある話。あたしは殺されずに生きていたい。でも非力すぎてなかなか殺す側に回れなかった。代わりに殺してくれるんだから、軍人はいいよ」
「ええ?」
「戦争は普通の人を人殺しにするよ。5つ違うと結構違うのかな、あたしの村なんてひどいもんだったけど。そのくせ戦が落ち着いてきたら今度は減った人間を補充しなきゃなんないって、バカみたい。
あたし、村で結婚したくなくてさ。嫁いで子供産むか金になる女工に出るかを選ばなくちゃならなくて、女工にしたんだ。したらなんでかこんなとこまで来ちゃったし。こうなればそうそう親無しと結婚したがる物好きはいないだろうけど、万が一そんな話がでないようにこの仕事就いちゃえばよくない? ってね」
「なに、それ」
意味がぜんぜんわからない。だってニンスは13歳だったはずなのに。結婚? 出産?
「ふふ、マーナにわかるかな、あたしは好きな人がいたんだ。でもそのひととは添い遂げられないから、あとは誰でも一緒、誰ともいたくない。ネーヴァンジュはちょっとそのひとに似てるしここは女だらけだし、ふふふ、あたしね、おんなが好きなの」
しばらく何を言われたのかわからなかった。おんなが好きな女がいるというのを初めて聞いたし、じゃあなんでこんな真逆の仕事に就くのかさっぱり理解できない。
「なんで?」
それでも伝わったようだ。ニンスは自分の唇を指でなぞってくっと顎を上げた。
「ひとりのおとこに一生尽くすなんてゼッタイ嫌。それなら毎晩違うほうがいい」
「えええ?」
ぜんぜん理解できない。
「だからササヅキは悪い人じゃないけどどうせならネーヴァンジュに縛られたいよね。ああもう、急いては事をし損じるってホントそう」
ぽかんとするあたしに笑って、ベッド際の小机から飴の包みを差し出してきた。仕草が姫見習いのものに戻る。たった1年でこんなに化けられるんだ。
「マーナはまだそこまで焦らなくても、じっくり選べばいいじゃない。軍人は敵以外殺さないわ。マーナも殺されない」
死にたくない。
そうなのか。
死にたくないからあのひとが怖いのか。
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