第31話 セリ5-3

 翌週の返還には同席させてくれなかった。宿分はあたしが書いたのに。ヘタだけど。


 読むほうは問題ないが、書く方はまだ覚束ない。綴りミスは減ってきたけど、端的に言って汚い。焦るからだよとナリアン先生にたしなめられるけど、なかなか直らない。ゆっくり書こうとすると書こうと思ってた文章が飛んじゃうんだもん。

 時間とお金が許せばまず1度木簡にざっと書いて、後からゆっくり紙に清書することができるけど、毎回それはあたしも面倒だ。うう、数字は書きたいスピードで書いたって読めるのに。


 厨房からぴょこぴょこされるとうざったいから引っ込んでろとお達しを受けて、部屋で客室用のへたれた枕に綿を足していると、夜準備中のミトラが呼びに来た。


 なにさ、くんなって言ったりこいって言ったり。


 若干ふて腐れつつ、あれ、でもなんか不備があったのと不安になってホールに向かう。珍しく嬉しそうなササヅキが立ち上がった。


「よろこべ、セリ、お前出世枠だぞ!」

「え?」


 打合せ中のテーブルにはいつもの検査に来るエリドナと知らない男の人がササヅキの向かいにいて軽く会釈される。慌ててぺこりと頭を下げると、ササヅキがその頭をぐるぐる回した。ちょ、撫でてるつもりかもしれないけど力強い、痛い痛い。


「ササヅキ、何? なんなの」

「銀行から見習いにこないかってお声がかかった。まさかとは思ったがお前の事情もわかってるところだ。すげえ手堅いぞ、お前向きだろ」


 ササヅキの言いたいことはわかった。あたしは親無し(も同然)だ。銀行は裕福な家庭の縁故が強い。大金が動くところだからバックグラウンドがしっかりしていることが必須なのだ。そんなところに先方から誘われるなんて、大出世だね、わーすごーい。


 他人事のように思考回路は走って理解した。自分の事としての理解がジワジワと染み込んでくる。


 待って。


 待って、まだ準備できてない、ササヅキは、ササヅキとは、まだ。


「あ、あぁあ―――――!」


 喉から塊が飛び出て思わずササヅキに殴りかかっていた。頭が熱い。滲む。むせる。


「ササヅキのバカぁあああ!」


 毎日鍛錬を怠らないササヅキは腕も肩も堅くて、あたしが拳をぶつけても跳ね返るだけだ。バカバカバカ。足も蹴飛ばした気がする。鼻水もいっぱい出た。全部ササヅキになすりつけた。


「なんだセリ、どうした!? 泣いてちゃわかんねえだろ、ほら、待て待て」


 ササヅキに抱き上げられ、あたしは首にしがみついてしゃくりあげる。ササヅキの大きな手が宥めるように背中をさする。


「う、売らないで、ここに、い、いたいよう、ササヅキとわ、別れ、るのヤだぁ!」

「売るとかいうな、なんだよ、お前の頑張りが認められたんだぞ、いい話じゃないか」

「ヤダって言って! るの!! サ、ササヅキのバカ! バカバカ!」


 お仕着せの焦げ茶のスカートがばさばさいってる。あたしが足をばたつかせてササヅキを蹴っ飛ばしてもびくともしない。


 ―――正規雇用って言ったくせに!


 家が好きだった。楽しいことなんて少なかったけど、時折幸運にも食卓が1品増えたり、妹が喋り始めたときに。ささやかな笑顔はあたしの宝ものだった。だから両親が家のためにあたしを出稼ぎに出すと決めたとき、あたしも納得して従った。女工としての契約は5年。けれど、戻ることはないとみんなわかっていた。だって今まで誰も戻ってこない。戻っても、あそこにはもう、あたしの場所はないのだ。売られたんだから。


 ササヅキはあたしのために、あたしを譲ろうとしている。どちらがあたしを思ってのことか、もちろんわかる。こどもだけど、間違えてない。『セリ』について何の責任もないササヅキ。


 だけどね。

 あたしはここにいたい。


 いたいのに、こんな不意打ち。


 納得したくない。「うん、わかった」って言えない。しょうがないよねって笑いたくない。都会に行くのいいなあなんて憐れみ半分でうらやましがられる、あの。



 気がついた。目が覚めた。寝てた。


 ササヅキが厨房の鍋をかき混ぜている。肩に抱えられるようにバランスを取られているのに気づいて、落ちないようにしっかり抱きつくとササヅキが「起きたか」と笑った。


「姉貴とミトラに怒られた。しかしお前にそんなに懐かれてたとは。正直驚いた」

「バカぁ」

「いや、だからってバカってな、……お前もちゃんと子供だったんだな」


 いっつも小生意気なことばっか言ってるから忘れてた、とまた笑われた。ササヅキはバカで失礼だ。


 途中から自分でもなにを口走ったか覚えてないけど、他の人にもほとんどわからなかったようだ。ただ、あたしが嫌がったのは通じたようで、もったいないけど断ることで合意が得られた。





 あれだけ醜態を晒したものの、1年後あたしは銀行に通いで見習いに入った。お恥ずかしい。


 けど、あの後も定期検査でやってくるエリドナから「稼げるよ」と囁かれ続けた結果だ。厨房の下働きは教会からの時間雇いで充分賄えるけど、銀行にパイプができるのは将来的に強い。なによりも給金が他の職に比べて格段にいい。見習いでもそうだ。もちろん守秘義務とか業務内容も他業種より遙かに厳しいだろうけど、『稼げる』は強かった。


 それに、結果としてあの時すぐに勤めなくてよかったのだ。計算は一芸になっていたけど語術の苦手なあたしの手跡はかなりのもので、読めない書類にマアルナ支店長は頭を抱えたことだろう。今でも癖字が直らないのだが、充分な可読性は確保している。まあ勤め始めの頃だってミミズが痺れた筆跡に頭を抱えたろうけど1年がんばったんです少しはマシです。……今度ハルタに見本作ってもらおうかなあ……


 ホール回しと宿管理のため、朝一番はこちらの仕事、少し遅れて銀行へ赴き、1刻の昼休憩に戻って昼ご飯とベッドメイク、銀行に戻って終業まで過ごしたら食堂のホール仕事と宿受付。忙しいけど銀行は大通り沿いでそんなに離れていないので助かった。大変なのはお仕着せが違うのでその都度着替えなきゃならないことだけ。それに銀行は糸と星の日の週に2日も休みがある。大資本すごい。素晴らしい。


 他の見習いからは朝一で入らないことで陰口を叩かれた。けど、本当のことなのでスルーする。もちろんその分の手当は引かれてるしみんなそれを知ってるけれど、食堂の女給が同じ銀行見習いをやってるのが気に入らないんだろう。


 当然だ。このことについてはエリドナにも上司にも訴えなかった。彼らはわかってて雇ったはずだから。


 それに、銀行の面々には、嫌みをかわしながら日々ウチの美味しさを吹き込んで仕事帰りに寄らせたりして難癖軟化作戦実行中だし。人間胃袋には勝てないのだ。たまにあたしの奢りで小鉢のひとつもつけて、味方と言えないまでも公平に仕事を回してくれればってレベルで手を打てれば上々。


 あとはまあ、男女共に、この界隈に興味のある人も多くて、特に男性陣はお隣のネーヴァンジュの館をオススメしておいた。富豪の縁故が多い銀行の同僚たちはそれくらいの方が安全だったし、どうしても奥に行きたい人には自己責任を念押しして、男性の客引きを紹介した。あたしが直接紹介するのはさすがにお互い気まずい。女性の同僚にはウチの店自体が好評だ。わりと夜遅くても大通りはすぐだし、不埒なお客さんはササヅキが速攻叩き出すし、常連さんはわかってるのでもっと飲みたいって時は河岸を変える。女性が安心して夕ご飯を食べられる場所。花街の前なのにね。


 もちろん贔屓や融通を利かせてもらおうなんて魂胆はない。でも決算期のみんなが死にそうなところにドゥーネのお店で仕入れたパンやウチからの出前を定価で持ち込むのは、きちんとしたテーブルで給仕される食事でなければ下賤だと眉を顰める一部以外には泣くほど喜ばれた。庶民も悪くないでしょ。

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