第27話 ハルタ1-1

 おばあちゃん、本を。




 教会で文字を教えてくれる。


 ササヅキの言葉はその瞬間から身体に入ってきた。正直それまではぼんやりしてて覚えてない。


 もうすぐ紡績工場のあるアルテガに着くと仲介人から言われた夜、泊まった宿には同じような女の子が何人もいて、工場っていうのはずいぶん人が必要なんだなって思ったのだ。そんなものじゃない、もっとずっとたくさんの人が働いているのだと知ったのはかなり大人になってから。その時はただ、女の子の―――みんなみすぼらしかったけれど―――華やかな空気に圧倒されてた。


 そこから数人が選別されて、今までの仲介人とは違う人に引き渡されて、そこからはもう、なにもかもなくしてしまった。数少ない自分の物―――着替え、髪飾り、そして本。


 もう読めない。けれど、これから読めるようになる。

 おばあちゃんがくれた本を、取り戻す。




 ササヅキに連れられて向かったキリア教会は、立派な建物だった。講堂のほかにいくつかの談話室があって、その時には見せてくれなかったけれど図書室もある。談話室のひとつが子供なら30人は入れる広さで、朝のお勤めのあと毎週水と火の日に神聖文字と算術を教えてくれる。語術の勉強中は石筆と石板と見本が配られて、文字が書けるようになったら名前と挨拶と神様の名前を習う。教えてくれるのはここまでで、もっと学びたかったら少しの寄付を共に。


 確かに生活するレベルではそれでもいいけど、私は本が読みたいのだ。これでは足りない。帰り道に買い食いするのを我慢して、寄付を貯めた。もちろん足りなくてササヅキにも追加をお願いした。


 算術は数の数え方、足し算、引き算まで。そのほかにかけ算とわり算があって、ひとつ下のセリは喜んで寄付を出しながらそちらを学んでいた。算術の先生は朗らかなひとで、飲み込みのいいセリに喜んでそれ以上の算術も教えていた。ただ、セリ自身は自分たちの借金が計算できるようになりたいと言っていて、びぶんせきぶんとやらを学んだあとはリタイアした。その頃にはセリも仕事が忙しくなっていたからだろう。


 わたしは算術は最低限で終わり。


 語術のナリアン先生は静かな人だったけれど、私がなぜ本を読みたいのかを理解してくれた。それだけでもいい先生だ。本当は貸し出しにお金のかかる図書室の本を、先生の居るところだけだったらこっそり読ませてくれた。

 私は覚えているおばあちゃんのお話を断片的に先生に語り、先生は同じ話を探してくれた。


 当時の私は、本を持って読めるおばあちゃんは村長と同じくらいすごいとただ自慢だったけれど、今になるとなぜあんな田舎の祖母が本を所有するに至ったのか、謎だ。マルケランカでも本は閲覧したり借りるもので、所有するものではなかった。母は本に興味がなかったから知らないだろう。いったいどんな秘密が、もしやロマンスが、など空想を語れる先生の存在はありがたかった。


 そういえばセリにも訊かれて、話したことがある。セリも不思議だねと相槌を打っていたが、お愛想ではなく本当に不思議そうだったので嬉しかった。なにしろこの境遇の中で、神聖文字を勉強し続けたのは私の他にはセリだけなのだ。勉強が好きなんて変わってると他の子たちに無邪気に言われるのはなかなかつらい。レジーディアンは味方してくれたけど。


 レジーディアンは可哀想だった。

 貴族じゃないとは言っても、私たちなんかよりずっと大事に育ってきたんだろうに、婚約者に裏切られて姫になると決心して。

 確かにここの姫たちを見てれば、私の村にいた娼婦とは扱いがぜんぜん違うのはわかるけど、この花街だって奥へ行けば非合法の荒れた娼館や未成年を売りにするところや店ですらない、道で済ませる安い娼婦もごろごろしている。ササヅキやネーヴァンジュは姫志望のレジーディアン、エッダ、ニンスには一通り見せたのでフェアな姿勢だと思うけど、不思議なことに三人とも翻さなかった。


 それどころかニンスは未成年の店に行きたがった。信じられない。下働きがイヤなんて理由で。ササヅキが許さなかったけども。レジーディアンには元気でいて欲しい。もらった手跡を辿りながら祈ってる。




 本を書く仕事に就くのは難しいけれど、代筆屋を目指したらどうかと案をくれたのは先生だった。郵便業と代筆業は近い。公式文書の代筆ができるほどになれば給料もいいし、本を所有するような富豪の事務方に紹介されるかもしれない。職場に本がある暮らし。それは思ってもみない未来だ。あの本はもう二度と手には戻らない。だけど、同じ本に巡り会えるかもしれない。


 春になったら別の都に行ってしまうレジーディアンに、娼館で使うようなお誘いの手紙、お礼の手紙、恋の悪戯に使う甘やかな言い回しを一覧にしてもらい、姫たちの代筆ができるように特訓した。レジーディアンの手跡は溜め息がでるほど綺麗。これを目指せば、この界隈の姫から小遣いが稼げる。本職の代筆屋の料金を調べて、見習い価格を設定してくれたのはセリだ。


 そのうち言い回しを自分で考えられるようになり、内容や姫のイメージに合わせてインクの色を変えたりと工夫を覚え、簡素な事務仕事書類と優美な代筆を書き分けるのも自信が着いてきた。ペンや紙、インクの購入で、稼ぎとササヅキからの借り入れ収支は大幅マイナス、本職にチャレンジする頃合いだ。




 10歳になった夏、初月にササヅキを通して申し入れをし、面接の日には今までの練習や本番用の手紙、架空の発注書、報告書、数ページの写本を持って行った。


「ぜんぜん駄目だ。でも思ってたよりいい」


 それが先方の感想。

 ショックだったけど、本物の代書を見せてもらって納得する。どこをどう直せばこうなるかわからないけど確かに違う。それでも通いが認められて安堵する。借金まみれの私が就職できそうなのにはササヅキも安心したようだ。


「お前はなあ。セリから聞いてるし目的も目標もはっきりしてるから貸し付けてるが、そろそろ返済に転じてくれるとありがたいよ」

 帰り道、ササヅキにぽふっと頭を撫でられた。


「でも、セリだって他の子だってまだ返済なんてしてないよね」

「チビはどいつもこいつも借り入れが多いんだよ……」

「ごめんなさい」


 ササヅキは元軍人の割に脳筋じゃなくて、細かいことに気がつくし店も大事にしてるしメニューの研究もしょっちゅう見かける。開店したばかりなせいか特によくセリとお金の話をしている。セリが戦力になってるわけではなさそうだし、店の経理のたたき台を任せるとか雑なんだか度量が大きいのか分からないけれど、私たちを鍛えることには余念がない。かくいう私も発注書やレシピの書取りに駆り出されて、あれもササヅキが楽するためじゃなくて私の練習用だ。


「職業訓練費は仕方ないが、お前は単価が高いからな。しっかりやれよ」

「セリが懐くのもわかるよ」

「なんだ?」

「なんでもない、早く住み込みたいなって」

「そうだな、半年か、一年。世間は成人前後の住み込み開始が多いが、お前たちはできるだけ早い方がいいからな。給料より住むとこが重要だ。11歳までには決まりたいよなあ」


 私とセリ、ノイル、ドゥーネ、ミトラはササヅキの客室を一室占拠して部屋代を頭割りすることで負担を減らしているけど、それでも毎日借金が上乗せされていくのだ。特に私はササヅキの手伝いはホールくらいしかしていないので相殺もされない。セリに聞けば詳しい数字もわかるけど、本気で精算に入る前まではあまり聞きたくない。


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