第15話 エッダ1-3
一週間悩んで、ニタは再びネーヴァンジュの館を訪ねた。ラナータと睦むためではない。カウンターから奥へ呼び出しをかけようとしたネーヴァンジュを引き留め、エッダの借財を聞いた。
「エッダの? ラナータじゃなくて?」
「ああ」
自分の不実を指摘されたようで一瞬目を逸らす。ラナータはやさしいおんなだ。けれどここから救いたいと思う関係ではなかった。
「そうねえ、あたしのほうは中銀貨5枚程かしらね。ドレスは作り始めたばかりだし」
中銀貨。冬支度前くらいしか見ない硬貨だ。しかし想像よりずっと少ない。
「しかしエッダねえ。どこで知り合ったか知らないけど、詳しくはあたしじゃなくてササヅキに訊いてちょうだい。あの子の債権者はササヅキなのよ」
ササヅキは確かネーヴァンジュの弟だ。最近軍から帰ってきてこの隣で食堂を開いたという。なぜここで彼の名前がでるのかわからない。
「ニタがエッダを
隣というのはこの春から開いている食堂だ。場所柄居酒屋かと思ったが店主のササヅキは料理のほうが売りらしい。もちろん酒も出るけれど。
昼の終わりかけに表から入れば当然客だと思われる。違うと言えずに定食を頼んだ。酒の代わりに水を頼む。四角いプレートに丸パンと豚肉を辛目に味付けした串が2本、葉物と豆の炒め物、そして汁物として根菜と腸詰めが沈むシチューが湯気を上げる。
豚肉はまあまあの質で、辛みがまだ底冷えの取れない空気に対抗するよう刺激を伴う。炒め物は肉がない時点で若干がっかりしたのだが、味付けに油脂でも使っているのか動物性の旨味があり、しかもこのあたりでは見馴れない―――味馴れない?―――調味料が使われていて物珍しさもありすぐになくなってしまった。
丸パンでプレートに残った肉のソースをこそげ落として完食した。量的にはすこし物足りなかったが、壁のメニューには単品もいくつかあるようだった。次はそちらを試してみたい。
いや、そんな暢気なことを考えている場合ではなかった。注文と支払いと料理を運んできたのはササヅキだったが、皿を片付けに来たのはまだ未成年の少女だ。ササヅキの娘か。
「ササヅキは空いてる時間があるだろうか。話があるんだが」
少女に伝言を頼むとあと四半刻もしたら店を閉めるからその後ならと返ってきた。入り口付近の小テーブルに着いていたニタは、返答を持ってきた娘に奥の6人は掛けられる大テーブルに案内される。更なる注文をすべきか迷ったが、すぐにまた別の少女―――もっと小さい―――がカップを持ってきた。これも香ばしい、このあたりでは味わったことのない飲物だった。
食事でアルコールを避けたから茶が出てきたのだと気づいて、意外に細やかな心遣いに驚く。なにしろササヅキは元兵士だけあって顔にも腕にも火傷のような引き攣れがあり、愛想はあるがその笑顔が怖い。
ニタは自分の体格の良さは自覚していたが、ケンカで勝てないタイプだということもよく知っている。ササヅキは狼だ。
ボンヤリしているうちに最後の客が引け、わらわらと子供たちが現れてテーブルとイスを壁に寄せ始めた。夕食の前に掃除をするのだと再び驚く。食べ物屋にしては床が綺麗だと今気づいた。
ずいぶんちびっこいのがたくさんいる。5人、しかも少女ばかりだ。全員がササヅキの子供だとしたらなかなかの子沢山だ。一瞬小人奴隷という言葉が掠めたが、子供たちは楽しげにはしゃぎながら掃いたり拭いたりしている。さすがにないだろう。
「で、なんの用だ。あんた誰だ?」
自分にもあんな時代があった。一抹の寂しさを握りしめて少女たちを眺めていたが、視界を遮るように中背だがみっしりと筋肉のついたササヅキが向かいに座った。慌てて自己紹介し、エッダのことでネーヴァンジュからこちらへ行くよう言われた旨をつかえながら伝える。
「エッダ? あいつはまだみせには出てないだろう」
「たまたま知り合ったんだ。客としてじゃない。それで、ササヅキ、俺が訊きたいのは、その、エッダの債務だ」
「なんであんたが」
「できれば……できるものなら、俺がかわりに払いたい。エッダを娼館から引き上げて欲しい。自由にしてくれないか」
「つまりお前さんはあいつを身請けしたいと」
「う、……まあ、そうだ。あの子にはそんな暮らしをさせたくない」
かなり不機嫌な、疑り深い目で睨まれる。そんなに金蔓を手放したくないのだろうか。エッダは姫の化粧を施して扇情的なドレスを纏えば人気になるだろうとニタも思う。誘う微笑みはいらない。あの、戸惑ったような僅かな否定と大人しく数少ない言葉は逆にその色香を煽るだろう。
「あんたの話だけじゃどうにもならん。ハルタ、エッダを呼んでこい」
掃除をしていたひとりが裏口から出て行き、しばらくするとエッダをつれて別の扉から入ってきた。向きから推測すると、たぶん娼館と繋がっているのだろう。
エッダはニタの顔を見て驚きを浮かべた。
「知り合いってのは嘘じゃ無さそうだな。エッダ。こちらがお前を請けたいそうだぞ。身請けってわかるか、お前を買って自分のものにするってことだ」
「ネーヴァンジュから教わりました。どうして、ニタ? なんのために?」
「うぐ……」
対顔するニタとササヅキに対してテーブルの横に立つ本人は心底不思議そうに首を傾げた。そんな仕草もニタの心に穴を穿つ。
「ニタ、俺はこいつらの保護者じゃないが、責任はある。本人が望まない斡旋はしない。ましてや人身売買なんざする気もない。縁がなかったな。女が飼いたけりゃもっと奥ならあるぞ。場所ぐらいは教えてやる」
「ち、ちがっ……!」
「ササヅキ、たぶん誤解だと思う。ニタはこどもにやさしいのよ。ほんとうなの。ラナータも知ってる。ニタはラナータの客なの」
「はあん?」
深く刻まれた眉間の皺が更に濃くなる。どう説明すればいいかわからず汗を吹き出しているとエッダがぱっとこちらを見た。
「もしかしてニタ、私が欲しいの?」
「いや! その、……そうだ」
「私と『するため』に請けるの? もう少し待ってくれればいいのよ、みせに出れば、その、お金はかかるけど、落籍ほどはいらないもの」
「違う! いや、したいかしたくないかだったらその、でも違うんだ、エッダはもう……笑わせたいんだ」
沈黙が走った。今更ながら掃除をしていたはずの子供たちも手を止めてこちらを見ている。エッダは完全に困惑した表情でササヅキに問いかけた。
「ねえササヅキ、どういう意味かわかる?」
「わからん」
険は薄れたが溝は深々としたままだ。
どう伝えればいいのか。この世には楽しい瞬間がある。ニタにもあった。諦めきって浮かべる笑いではなく、勝手に頬がゆるむ時が。エッダにもあるべきだ。ササヅキにでなく、エッダに向かって訴えた。
「豚が好きなら大丈夫だ、あいつらはかわいい。楽しい。休憩時間にはビスケットだってクッキーだって摘まめる」
「ううん、嫌いよ、意地汚くて泥塗れでいつもビービー鼻を鳴らして。でもニタの話に出てくる豚はかわいくてしあわせそうで美味しそうだからいいなあって思ったのよ、でも言ったでしょう、豚舎で働くなんて無理よ」
「俺が教える。大丈夫だ、旨い物のためならきっとがんばれる。豚は旨いだろう」
商品だ、食べ放題なわけではない。しかし精肉にすれば細かい部位や骨や少し堅い腱などが残る。端物とはいえ、よそよりは口にする機会は多い。
しかしササヅキは静かに指摘した。
「雇うつもりだったのか? 働いたことのない娘を適性もわからないのに出すわけに行かない。もし合わなくて不利益がでたら? ニタはまだ養豚場主じゃないだろう。お前の親父に駄目出しされたらどうする。責任がとれるのか」
ササヅキの言葉は本当だった。父親に逆らうことはできない。しかし、なにか方法があるはずだ。この少女を救う方法が。
「じゃあ、エッダ、結婚してくれ」
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