第14話 エッダ1-2
エッダはニタが声をかけると立ち止まった。少し休まないかと言えばベンチについてきた。店の客を蔑ろにしてはいけないと教わっているのだろう。
ニタの話題は相変わらず豚舎の風景と、この街の話と、ラナータの話だ。しかしエッダは大人しく頷き、そして時間を見て別れの挨拶をする。
面白くもなんともない話を付き合いで流し聞いてるのだろうこちらは客だから、と思うものの、時々質問が返ってきたりすると胸が跳ねた。言葉数は少ないが物腰の丁寧な少女はニタをがっかりさせなかった。あの、夜、布団の中でああ言えばこう言えばと煩悶する時間を寄越さなかった。
「エッダは大人しいな」
「あの、ええと……わたし、ここよりずっと田舎で育ったので、言葉が悪いって……乱暴らしくて、ゆっくりでいいから綺麗な言葉で話しなさいとネーヴァンジュから言われているの。それで、姫のお姉さまたちを真似てるところなの。丁寧な言葉がわからなくて、まだ沢山話せないだけ」
予想外の返事だ。だが確かにああいう店では田舎から売られてくることはよくある。しかしネーヴァンジュの
正確に言えば、もっとずっと安い店に行ったことが一度だけあったが、店主の笑みもおんなのなれなれしさもニタには苦痛だった。それが被害妄想だとわかっていても、だ。
広場の噴水を眺めるエッダの横顔を伺う。少し厚めの唇にたらりとした目尻。柔らかな首筋の曲線。細々とした仕草はいちいちニタの心臓を止めてくる。笑みこそ浮かばないが、ニタを蔑む色はない。時折不思議そうな顔で見上げてくることはあったが、ネーヴァンジュの教育を受けているというのも安心だった。
「そうだ、これ。久しぶりに飴屋を見かけたから」
冬の間は屋台もあたたかい汁物や串焼きのようなものしかでない。春の中月を迎えて空っ風も少なくなってきたからか、飴屋が復活していた。気温の高い時期は溶けやすいので夏に入ると姿を消す、春や秋の風物詩だ。もの珍しくてつい口上に負けたがエッダに渡すなら無駄にならない。小さな一袋をエッダに差し出すと、困惑気味に首を振られた。しかしニタの顔色を読んだのか、「いいの?」と確認される。もちろんだ。そのために買ったのだから。
「珍しいからつい買っちゃったけれど、俺は甘いものが苦手なんだ。持って帰ってもしょうがない」
「ありがとう。飴は好き。甘いから」
俯いて呟くので、身長差のあるニタには表情が見えなかった。好きな食べ物の話ですぐ俯くのは恥ずかしいからか。笑ったりしないのに。むしろ笑って欲しいのに。
「それじゃあ、また今度」
いつもの別れの言葉を口にして、エッダは俯いたまま去った。
飴は好き。甘いから。少女らしい理由を脳内で繰り返してはニタはむずむずと笑いを堪える。甘いから好き。甘いものが好き。次は飴じゃなくても、甘いものを。彼女の好きなものを。
街に行くのは週に3回、
やがて広場を横切る少女をみつけ、いつものように声をかけた。立ち止まり、こくりと挨拶する彼女をいつものようにベンチに誘う。無駄に体格のいい自分の隣にちょこりと腰掛けるエッダに急きつつ袋を差し出す。
「これ、この前、甘いものが好きだって言ってたろう。あげる」
今度こそ笑顔が向けられるかもしれない。そう思っていたのに、エッダの眉が下がった。
「わたしに、買ったの?」
「う、うん、好きだろうと思って……」
「ありがとう。でも、受け取れない。わたし、返せるものがないの」
「いやっ、ただのおやつだよ、そんな深刻なものじゃないからっ」
「でも」
エッダの逡巡がわからない。困るというより怯えにも見える。
「大丈夫だ、お返しなんて考えなくて。なんならラナータに訊くといい。気にするなって言われるさ」
本当はふたりだけの秘密がいい。エッダがこっそり楽しめればいいと思って買った。けれど受け取られないくらいならエッダが安心するほうがいい。
「返されても俺は食わないから、甘いものは、だから訊くといい」
いたたまれなくてニタはベンチから離れた。いつもなら去る少女の後ろ姿を見届けてから帰路につくのに、今日は自分が逃げ出すのだ。
久々に惨めさに布団の中でもがいた。そんなに押しつけがましかったか? 居上高だったか? 恵まれぬ少女に―――恵まれてはいないだろう―――施しを与えようとしていたか? ニタは少女に笑って欲しかっただけだ。しかしありがとうと言われたかったかもしれない。感謝はあたたかい。エッダに感謝されるならうれしいだろう。けれど、そんな物欲しそうだっただろうか。
月の最後の麦の日、街の酒場で飲んでくる。両親との暗黙の休息日だ。実際にはラナータに会いに行く日だ。これも両親は薄々気づいている。だからこそ行かないわけにもいかない。しかし先日のエッダがラナータになにを報告しているか、考えると気が重かった。配送を終え、夕飯代わりの居酒屋で一杯ひっかけてから、いつもの時間に娼館に赴いた。ネーヴァンジュがいつものようにラナータを呼び、ふたりで階段を上がる。しかし部屋についたところで、ラナータが足を止めた。
「ラナータ?」
「ニタ、少し時間をあげるわ。ネーヴァンジュにはナイショよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、ラナータは扉の向こうにニタを追いやった。背後で閉まる扉の音が小さく軋む。しかしラナータのベッドに腰掛けているエッダの姿に驚いたニタはそれどころではなかった。
「どうしてここに?」
「ラナータが、少し話をしなさいって。ニタが傷ついてるからって。ごめんなさい。わたしラナータに説明されるまでよくわからなかったの。大人って、意味もなく子供にお菓子をくれたりするものなのね」
違う、エッダだから、ニタは甘いものをあげたかったのだ。
しかし反論は口に出せなかった。エッダが笑ったからだ。艶やかな唇がとろりと弧を描き、目が吸い寄せられる。
「ありがとう、ビスケットっていうの、初めて食べたわ。おいしかった。ニタも甘いものが食べられるなら、一緒に食べられたのにね。わたし、ビスケットも好きだわ」
「……ビスケットだけなら、食べられる」
「ああ、甘いのはジャムが入っていたから。そうよね、じゃあ一緒に食べられるわね」
いったいなにが起きているのだろう。ニタの心臓はあまりのスピードに呼吸が困難になっている。立ちっぱなしのニタに、エッダが隣を勧めた。
「わたしね、とても田舎から来たの。こんなきれいな街じゃなくて、もっとこう、さびしくて乱暴でいつもおなかが空いてて大人が怖い村だったの。だから飴をもらうなんて、普通なかった」
少女の声は静かで、ニタはこのまま時間が止まったらと願わずにはいられなかった。しかし続く言葉に凍り付く。
「わたしね、昔から、そう昔から、こんな暮らしだったの。むしろ、ご飯にありつけるようになったのは智恵がついてからかしら。食べ物を分けてくれるひとにサービスするようにしたら、みんないろいろくれるようになったわ。
だって嫌がっても泣いても無駄でしょう? わたしが悪いんですって。なにが悪いのか誰も教えてくれないのよ。教えてくれないのにわたしが悪いって理由で押し潰されて、ごめんなさいって謝って、泣くのを我慢したり言われたとおりにすると許されて褒められたりしたわ。
上手くこなせばご褒美をねだってもいいの。パンやスープや、飴も。
半年前、仲買人がやってきて女工を募集したとき、こっそり頼んだわ。ここから連れ出してって。お願いと引き替えに払えるものはわたししかなかったけど、親に支払いをしなくて済むからって仲買人は方法を教えてくれたわ。うまく落ち合ってやっと逃げ出したのに、結局たどり着いたのはこのお店だった。
だからわたしはもう、ここで働くことにしたの。だって同じことをするんでも、村にいたときよりずっといいところでしょう。ここでは突然殴られたり、路地に引っ張り込まれたりしないの。道で誰かにぶつかっても怒鳴られなくて、しかもニタは助けてくれた。びっくりしたわ。
ねえ、ニタ、わたしがお店に上がったら、料金を払えばいいのよ。それだけの話。いままでありがとう。もう広場では呼ばないで。わたしはここの見習いだから、何かもらってもお礼をわたしで払うわけにいかないの。ごめんね。ラナータがいるからわたしを指名するの、難しいのかしら。たまにはわたしにしてね。いっぱいサービスするから。豚の話、面白かった。その時はまた聞かせてね。ジャムの入ってないビスケットを一緒に食べてね」
衝撃で声もでなかった。笑ってくれたら、自分だけを見て微笑んでくれたらという願いが叶ったのに、思い描いていたような状況ではまったくなかった。
「じゃあラナータを呼んでくるわ。また、今度」
少女の別れのあいさつだ。次がいつかの約束のないまま。
「エ、エッダ」
もつれる舌で少女の名を呼ぶ。
「なあに、ニタ」
「俺の豚を見に来ないか。豚が好きなら豚舎で働かないか。ここで働かなくても」
他の道はあるだろう、というニュアンスは伝わったはずなのに、俯かれた。
「ううん、いい。わたし、家畜の世話をしたことがないの。というか、他のことをしたことがないの。できないわ。ここの下働きもまともにできなくて、特訓中なくらい。ニタに迷惑かけるし、ネーヴァンジュにも面倒をかけちゃうの、困る。借金もあるし」
そうだった。すっぽ抜けていたが、こういったところで働くおんなは大抵返済を抱えている。ニタの言葉ひとつで頷けるわけがない。
それ以上引き留める言葉は出てこず、ドアを閉める少女をなす術なく見送った。
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