第13話 エッダ1-1

 ネーヴァンジュにラナータを呼んでもらったニタは、いつもの部屋へ向かう途中でシーツを抱えた少女にぶつかりそうになった。


「あっごめんなさい」

「エッダ、どうしたのこんな時間に」


 掃除は昼の店開け前に済ますものだというのは客でも知ってる。だからラナータは咎めたのだろうが、その子は「マリカーのお客様がワインを零してしまったって……」と困惑気味に俯いた。


「ラナータ、俺は気にしないから。俺の図体がでかいのがいけないんだ。ここで引き留めてたらまた別の客に行き会う」

「そうね、エッダ、行きなさい。走らないようにね」


 俯いたままさらにぺこりと頭を下げて走るか走らないかギリギリの歩幅で去っていった。


「ニタ」


 ラナータに呼ばれて振り向くと、苦笑気味のラナータに腕を引かれた。

「部屋へいきましょう。あの子、気になる?」

「いや……」

「あらあら、お客様がひとり減っちゃったわ。でもまだダメよ。まだ表に出せるじゃないの」

「いや……」


 ラナータは声が低く、笑い方も穏やかだ。この館の中では年増なほうだろう。だが落ち着いた雰囲気がいい。ニタは自分が女性受けしないことを自覚しているが、ここのおんなたちはみんなやさしい。もちろん誤解などしないが。そのなかでもラナータは一番つきあいが長い。というか、ここで最初にニタの相手をしたのがラナータだ。そしてその後もずっと彼女を指名している。


 ニタは背が高い。ラナータは女性にしては高めだが、それでも肩ほどしかない。先ほどの少女は胸の辺りだった。一般的な成人女性はそのくらいだ。そしてニタは横幅もある。金持ちのデブのようなぶよぶよではない。養豚場の跡取りとして毎日力仕事をしているからこその体格だが、いっそ金持ちのぶよぶよのほうになりたかったと思うこともある。少なくとも金があるというのは魅力になる。31歳を迎えて女っ気のない自分からみれば、10代後半の結婚適齢期に入った少女たちはみな眩しく、そしてとうに手の届かない存在だった。





 すれ違った、俯き気味に手提げ鞄を抱える少女のオレンジの髪に見覚えがあった。スピードは速くないが、下を向いていたのではまた人にぶつかるだろう。と思った矢先によそ見の若い男に当たりそうになった。慌てて走り寄ってバランスを崩した少女を抱える。


「おっと悪い」

 転ばずに済んだ少女と支えた自分を一別して若い男はそのまま歩み去った。何事もなく済んでほうっとため息をつくと、「あの……」とか細い声が腹のあたりからした。はっとして掴んでいた腕と肩を離す。


「あの、ありがとうございます。ええと」

「ネーヴァンジュのとこの、下働きだろ。見覚えがあったから」

「はい」

「何日か前、シーツを持ってた」

「あ」


 思い当たったようだ。よかった。見ず知らずでも縁があるかないかではきっと差がある。へんな男に抱きつかれたと騒がれたらあまりにも自分がかわいそうだ。


 そうだ、すれ違って、なのに振り返って彼女の背中を見ていたから助けられた。しかしそれをそのまま口にしたらおかしな男じゃなかろうか。ふっと冷や汗が出たが、何気ない顔で忠告する。


「こないだもだけど、前は見ていたほうがいい。ぶつかって因縁つけられても困るだろう」

「はい」


 ざっと音が聞こえそうなほど少女の顔色が変わった。


「おい、どうした、大丈夫か? 少しそこで休んだほうが」


 ニタが慌てて示した広場のベンチは、中央の噴水を眺めるように等間隔に並べられた物だ。それを囲むように低い柵があり、通行人は柵の外を歩く。柵の切れ目から中に入り、空いているベンチに並んで腰掛けた。


「なにか飲むものでも買ってくるか」

「いいえ、大丈夫。ちょっと別のことを思い出してしまったの。でも大丈夫。ここは、だいじょうぶ……」


 しばらく両手に顔を埋めていたが、やがてあげた顔色はもう戻っていた。

「ありがとうございました。お客様にご迷惑をかけてしまったわ」


「いや、俺はもう用事は済んでるから。帰るところだったんだ。その、送っていこうか」

「いいえ、お遣いの途中なの。今度はちゃんと前を見ます」

「そうか」

「はい。ありがとうございました」


 笑顔とは違うがまっすぐ見つめられて、ニタはうろたえた。目を逸らす。

「ああ。気をつけて」


 ぺこりと一礼して去っていく後ろ姿を眺めた。揺れるオレンジ。翻る水色のスカート。図らずも一番縁のない世代の少女と話してしまった。まっすぐこちらを見上げた彼女の左目尻に、小さな黒石が光ったのを思い出す。《ひとつ石》か。ぱっとはわからなかったが、見えないところに二つ目もあるかもしれない。《石の子供》は幸運を運ぶというが、実際にはなにか力があるものでもないらしい。


「幸運か」


 そんなものはとうに諦めた。不幸でなければ幸福かというのは違うと思う。不幸がることさえ惨めだと認めてしまえば、あとは空虚しか残らない。



 三度の再会も、広場で柵に凭れながらぼんやり噴水を眺めていたときだった。視界にあのオレンジが入り、目があった。硬直して声をかけたものか逡巡したが、少女のほうから近寄ってきた。


「こんにちは。またお仕事帰りなの?」

「ああ。またお遣いかい」

「はい、お届け物です。姫の姉様たちは昼間に寝てるから」

「ああ」

「ラナータが、よろこんでました。次回を楽しみにしててね、だそうです」

「ははは……」


 なんという伝言を寄越すのだ。ニタはいたたまれなくなり、ごまかすように噴水に視線を向けた。つられたように少女もそちらを見る。そう長くはないのだろうが、ニタのなかでからからと回っていた質問が口から出たのは少女が身動ぎをしたときだ。このまま別れてしまいたくなかった。


「君の、名前は」

「あ、はい、わたしはエッダ。あなたは、ニタ?」

「知って」

「ラナータが教えてくれたから。それじゃあ」

 エッダはまた去っていった。後ろ姿はすぐに紛れた。




「豚はかわいい」

「そうなの?」

「それに神経質で綺麗好きだ」

「そうなの?」


 少女は不思議そうな顔をした。柔らかい色香を纏う彼女がいつもより幼く見える。


「犬のような忠実さはないがあいつらも懐く。極たまに、屠畜が辛いときもある」

「かわいがってもやっぱり殺すの。食べ物だものね。私の村では共同豚舎があって月にいっぺん処理したわ。お肉は好きだったわ。おいしいもの」

 おいしいから食料なの、と俯く。旨ければ笑えばいいのにとニタは残念になる。


「そうだ、あいつらは旨い。俺はあいつらをもっと旨くして、もっと大きな豚舎にしたい。運動させない方が肉質は柔らかいが、狭いところで沢山飼うのは病気や共食いの危険がある」

「共食い? するの?」

「仔が喰われたりするな。もちろん分けて育てるから普通はそんなことにはならないが」

「ふうん」


 エッダの瞳がニタを捕らえて、こんな話題しか出せない自分が恥ずかしくなる。この少女を笑わせたい、微笑みが見たい、しかしそんな器用な技は未だかつて発揮できたこともない。


「エッダは笑わないな」

 自分でも頭を抱える不用意な言葉を口から出してしまった。エッダは眉を寄せ唇に指を乗せた。


「笑うって難しいわ。よくわからないの」

「ああ」

 予想とは違った答えだ。失礼を責めてくると思ったのに。


「ニタが笑わせてくれるの」

 無理だ。ニタは少女がよろこびそうな面白い話も美しい物語も語れない。向き不向きで言えばニタはおんなを笑わせる才能は皆無だった。黙ったニタをしばし見上げていたエッダは、その視線を空に向けた。


「私帰らなきゃ。お遣いの途中なの」

「ああ」

 ベンチから立ち上がり、スカートを直す。その仕草が妙に胸に来る。

「お店には今度いつ来るの?」

「え」

「ラナータには今度いつ会いに来るの」


 言い直されて言葉に詰まる。出会いが娼館だ、その質問は正しい。しかしなぜそんなことを訊かれるのかはわからない。それにそれがなにを示すかお互い明確にわかっているのがいたたまれない。


「たぶん来月……だけど配達には三日後にも来る」

「ふうん。また今度ね」

 目を伏せて少女は去っていった。



 もしできることなら。次に会う約束をしたかった。きっと興味ないであろう豚たちの話しかできなくても、相槌を打ってもらえるなら。しかしそれは独りよがりな幻想だ。ニタはうまく話せない。相手が楽しいと思えるような話題を出せない。それでは駄目なのだということだけわかって、ではどうすればいいのかはわからない。


 隣に座った少女の横顔だけが瞼にちらつき、ニタは呻いた。

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