第12話 レジーディアン2-3

 もう痛みはない。虚ろな穴はネーヴァンジュが呪いで塞いでくれた。それでもハルタの言葉はレジーディアンを少し愉快な気分にさせた。


(そう、その動機はないけれど、上を目指すというのは必要なのだわ)

 二度と折れないために。つよくあるためならば。


「わたくしの婚約者がササヅキのような強さを持つ方だったらよかったのに」


 せめて建前だけでもここへ来て直接別れを告げてくれたら。あんな、自分は別れたくないが家名を背負う者の苦悩をわかって欲しいなんてずるい逃げを打つような男でなければ。レジーディアンは騙されたことに気づかずに死ねたかもしれないのに。


 けれど今の自分を哀れだとは思わない。強さは自分が持てばいいのだ。





 つよくありたいと願った日から、修行には更に身を入れた。新年までもう日がない。年が明けたら移動することになる。しかし真剣に学べば学ぶほど、不安も出てきてしまった。


 年末も差し迫ったある日に、レジーディアンは遂にネーヴァンジュに切り出した。

「ねえネーヴァンジュ、わたくし、王都に向かう前にササヅキと交わすことはできるのかしら」


「それは初物だって偽って王都に移るって意味?」

「あら? いいえ、でも、そうなってしまうのかしら。なんて言うのかしら、練習? ヤムダンの店で初花を売り出しても、本当の初めてでしょう、失敗するのが怖いの。それってわたくしの評価が落ちるということよね。だから店での初売りはそれとして、本物を試しておくことってできないのかしら」

「できないねえ。それも込みでの売りだからねえ」

「そう……」

「しかし妙なことを言い出したね。しかもササヅキって。そりが合わないんじゃなかったの」

「そうね、あの人と話すと苛立つことも多いわ。でも」


(でもそれは、わたくしが知らないことをあの人が知っていたから。賢しらにではないけれど、わたくしの無知を呆れられたのが悔しくて)


 ササヅキは自分のずっと前を歩いているのだとわかったから。自らの腕で立つ生き方は。


「少なくとも、あの人の生き方には尊敬できる」

 父よりも、婚約者よりも。


「あらら」

 自分の弟がほめられるのが面白いらしく、ネーヴァンジュはニヤニヤと口角を上げる。

「じゃあ、ササヅキがいいって言ったら見ない振りしてあげよう。自分で頼んでおいで」

「頼む?」

「そうよ。今のを本人の前で言ってね、そして誘ってごらん」



 食堂では内装が完成し、今のササヅキは厨房に籠もりかまどやオーブンの調整で黙々と試作をしている。それらは味見を兼ねて娼館に振る舞われているので、レジーディアンも口にしている。普段のがさつさからは想像できない繊細な調理法や複雑な味付けが意外だった。そしてほとんどが美味しい。

 実家で食べていたような高尚な料理にはもちろん及ばないが、この界隈で平民相手に商売するなら充分人を引き寄せると思う。ササヅキが言うにはこの街は西側で2番目の交易都市であり、不思議な味付けの料理は東の方の特産品なので商人や旅人や東の出身者にもアピールするのだとのことだ。


 レジーディアンには商売はわからない。けれど熱心に教わるミトラや走り回っているセリたちが失業しないようにササヅキにはがんばって欲しい。


 そのササヅキを探して深夜に近い時刻、娼館の裏にある廊下を渡り食堂を覗いた。この時間にはもう子供たちもいない。壁をノックすると片付け中のササヅキが振り向いた。外にと指を示すと怪訝な顔をしながら頷く。


 誘う、というのは姫としての腕前を発揮しなさいということだろうか。しかしネーヴァンジュからは焦らす、触れなば落ちんと見せる、ベッドでの手業などは教わったものの、自分から誘いに行くという状態にはそもそもならないのが姫の立場だ。

 それに気づいた時点でどうやらネーヴァンジュにからかわれているのでは、と思い至った。しかし生きる道はここと決めたものの失敗が即破滅になるのではという恐怖はちろちろと心を舐める。


 裏口の前でササヅキが出てくるのを待った。



「はあ? おまえの一発目なんざ金がもったいねーよ。わかる? 俺は今勝負の最中なの。この店の運転資金、そんなモンに溶かしてたまるか」


「あの、『そんなモン』とはどういう意味ですの。あなたに初花を購ってほしいのではありません。わたくしは己の技巧を確認しておきたいのです、真剣な話ですわ、それを、い、い、いっぱ……」

 あまりにも表現が下劣で復唱できない。


「……なんか不憫だな、おまえ。ここでなに覚えた。バカのままか。もう甘やかされは終わってんだ。お前は王都に行くんだろ。ここではお前の処女は大銀貨1枚だ。あそこなら倍はいくだろう。新品のままならヤムダンも小金貨2枚は出すから初回分と同額くらいは餞別でお前に返す算段を姉貴が立ててる。

 お前は子供でいないことを選んだんだ。思い出ならこれくらいにしとけ」


 矢継ぎ早に自分の値段を明らかにされ、その数字の大きさに戦く。ネーヴァンジュはなぜ言わなかったのか。ここでササヅキが頷いたとして、もし発覚したら自分の評価が落ちる程度のものではない、ネーヴァンジュの信用も地に落ちる。そしてヤムダンから破格の損害賠償を求められるのだろう。


 浅はかだった。自分の恐怖くらい抑えられなければいけないのだ。結局また自分は誰かに縋ろうとしてしまったのだ。

 唇を噛み締めて俯いたレジーディアンは、しかし、荒れた指に顎を引き上げられ、なにをと開いた口は塞がれた。


 息が上がり苦しさで涙がにじむ。ネーヴァンジュの慈しむ技とは大違いだ。


 くたりとしたところで離されて「このバカ。姉貴に謝っとけよ」と残された。

 しばらくそこでたたずんで泣いていた。自分の馬鹿さに泣かずにいられない。愚かで浅はかな自分。ネーヴァンジュもササヅキもなんと優しいことか。恩を返す最大のチャンスを自分でフイにするところだったのだ。


 冬の凍てつく空気に全身が凍えきった頃、顔を上げ、刺すような水で腫れた瞼を冷やし、部屋に戻って化粧を直し、ネーヴァンジュに謝りに行った。




 新年の初日は静かだ。すべての店は閉まり、ネーヴァンジュの店もみなのんびりと過ごしている。ササヅキは翌日に控えた開店を前にそれどころでは無さそうだが、試作された新年祝いのメニューを食べた子供たちは嬉しそうにササヅキにまとわりついていた。


 1週間後、華やかな空気が余韻を残す中、ヤムダンから迎えの使者と証文が届いた。翌日、使者と一緒に王都に移動するために姫支度を荷馬車に移し、泣くハルタの頬にキスして、がんばってねとなぜか力強く声援するセリに微笑み、ホーリ以外の少女たちと別れを惜しみ、ネーヴァンジュと夫のハーケルン、そしてササヅキに礼謝して馬車に乗り込む。足台に寄るとササヅキが進み出て手を添えてくれた。このひとは時折貴族に対するような態度を見せる。けれど小声で伝えられたのはいつもの口調だった。


「王都で一番になったら冷やかしにくらい行ってやるよ」

「ぜひいらして。その頃にはあなたの懐具合じゃ後ろ姿しか拝めないようになっていてよ」


 たっぷりと余裕をもって、毅然と、けれど見下しではなく、甘やかな誘いを含んで。


 その仮面をきちんとつけることができるのだとササヅキに披露する。

 彼は少し眉を上げて、そして初めて真っ直ぐ笑ってくれた。

「楽しみだ」

 その顔に胸を抉られる。

 自分がこの男に恋をしていたのだと、いま知った。

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